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大淀川ゾーン

   大淀川に架かる橘橋


初代橘橋
橘橋が出来るまで
   宮崎市はその昔、大淀川を境界線にして北が宮崎町、南が大淀村といった地域名で呼ばれていました。

 架橋以前、この大淀川をはさんで流通を行うには、まず、当時川の南方にあった広い河原を通って水際に出て、そこから渡し舟で大淀川を渡って流通を行っていました。

 この渡し舟での流通は、大雨等で運行中止になることも多く、その度に生活物資が途絶えるなどの問題を抱えていました。

 橘橋の架橋は、住民にとっての悲願だったのです。
明治の先覚者・福島邦成の努力
   「大淀川は日向随一の川である。だからこそ橋を架橋しなければ・・・!」そう思い立ち、初めて架設を唱えたのは、明治の先覚者、福島邦成(1822〜1898)でした。

 しかし当時、宮崎県は鹿児島県の一部であったため、宮崎支庁があるだけでした。

 福島邦成が橘橋の架橋を、長くに渡って唱え続けましたが、それでもなかなか認可を受けることが出来ませんでした。

 それでも「私費で造るなら」という条件つきで認められ、福島は自身の財産をかけて長さ450mの木橋を賃取橋として完成させました。「橘橋」という名称は、福島邦成がその際に自ら命名したものです。
 
 明治13年4月のことでした。
4代目橘橋

橘橋の度重なる流失
   しかし、その後すぐに流失してしまい、ただちに県による第2代橘橋架設(木橋)が行われましたが(明治17年6月完成)、それもあえなく流失することとなります。

 この流失に際し県は、「一度架けられた橋は、住民の足として欠かせないものである」という事から、福島の跡を継いで木橋を架設し(明治17年)無償通行としました。

 しかし、度重なる架設の中、橘橋は再び豪雨により流失。
 その後、県により木橋架設となりましたが、旧橋より橋幅の広い本格的木橋として明治21年12月に完成しました。

 この代の橘橋は約39年間、人々に親しまれましたが、やはり木橋であったため、流失の危険に常にさらされていました。

 流失の心配のない永久に利用できる頑丈な橋の架設は、住民にとっての願いだったのです。

7代目橘橋

橘橋、近代化を迎える
 

 その後、昭和2年8月に県下を襲った暴風雨による橘橋の流失により、永久に利用できる橘橋についての取り組みが本格化されました。

 そして、昭和7年4月に完成した橘橋は、全長358.5m、巾16.4m、(車道10.9m、歩道2.7m)の無こう式鉄筋コンクリート橋として、永久化を大いに考慮した頑丈な橋となりました。

 それから、急激な道路交通の増加や市の都市化を迎えることにより、橘橋は昭和54年3月、全長389m、幅28mのPC箱型6径間連続けた橋として完成。

 その後、永くにわたって住民に利用され続けています。
 このように、長年に渡って人々が願いを込めてきた橘橋は、今や宮崎市のシンボルとして欠かすことの出来ないものとなりました。

 橘橋は、先覚者・福島邦成をはじめとした、さまざまな人々の努力が結集された、夢と努力の結晶なのです。







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