県指定史跡

38.谷村計介旧宅跡

(県指定 史跡)

谷村計介

所在地:糸原字下馬場
指定:昭和8年12月5日

谷村計介は、嘉永6年(1853)2月13日に倉岡村糸原で生まれました。西南戦争の際、薩摩軍に包囲された熊本鎮台(熊本城)の官軍を救出するため、農夫姿に身を変え、城外に脱出し、苦心の末に高瀬に置かれた征討旅団本営にたどり着き、救援依頼の密使役を果たしました。

その後、田原板の戦いで25歳の若さで戦死しましたが、その間の彼の行動は冷静沈着にして勇気あるものとして賞揚されました。

「贈従五位陸軍伍長谷村計介誕生之地」と刻された石碑と墓所が、現在倉岡の地に残されています。

39.赤江町古墳

(県指定 史跡)

赤江町古墳の写真

所在地:赤江地区(恒久2丁目)
指定:昭和8年12月5日

指定数3基。現在は円墳1基のみ確認できます。

40.倉岡村古墳

(県指定 史跡)

倉岡村古墳の写真

所在地:倉岡地区
指定:昭和8年12月5日

指定数9基。現在は前方後円墳1基、円墳2基、横穴5基が確認できます。

41.青島村古墳

(県指定 史跡)

青島村古墳の写真

所在地:青島地区
指定:昭和10年7月2日

指定数5基。現在、2基を確認できますが、ほとんど墳丘の形をとどめていません。

42.宮崎市大淀古墳

(県指定 史跡)

宮崎市大淀古墳の写真

所在地:大塚地区
指定:昭和12年7月2日

指定数7基。前方後円墳2基、円墳3基、横穴1基で構成されます。

43.木花村古墳

(県指定 史跡)

木花村古墳の写真

所在地:木花地区
指定:昭和12年7月2日

指定数3基。現在は前方後円墳2基、円墳1基が残っています。

44.住吉村古墳

(県指定 史跡)

住吉村古墳の写真

所在地:住吉地区

指定:昭和14年1月27日
昭和19年12月15日

指定数59基。前方後円墳1基と約40基の横穴が確認できます。

45.宮崎市下北方古墳

(県指定 史跡)

宮崎市下北方古墳の写真

所在地:下北方地区
指定:昭和14年4月21日

指定数16基。前方後円墳4基、円墳9基が確認できます。

46.生目村古墳

(県指定 史跡)

生目村古墳の写真

所在地:生目地区
指定:昭和19年12月15日

指定数21基。円墳2基、横穴14基が確認できます。

47.瓜生野村古墳

(県指定 史跡)

瓜生野村古墳の写真

所在地:瓜生野地区
指定:昭和19年12月15日

指定数47基。横穴が多数を占め、下北方台地と竹篠台地の斜面、上北方地区に集中しています。

48.池内横穴

(県指定 史跡)

池内横穴の写真

所在地:平和が丘西町
指定:昭和47年5月26日

指定数4基。団地造成後に4基を指定し、サンプル的に保存しています。

49.船塚古墳

(県指定 史跡)

船塚古墳の写真

所在地:神宮2丁目(宮崎神宮境内)
指定:昭和52年4月1日

宮崎神宮本殿北側にある前方後円墳。一部削られているが、比較的良く形を残しています。

50.古月禅師分骨塔

(県指定 史跡)

古月禅師分骨塔

所在地:佐土原町上田島767(大光寺境内)
指定:昭和9年4月17日

「東の白隠、西の古月」と称されたほどの江戸期禅宗中興の祖古月禅師は、佐賀利端光院宗密和尚について学び、その後松厳寺一道和尚に弟子入り、10歳で禅宗の仏門に入りました。後に藩主惟久の命により大光寺四十二世住職となり庶民の生活善導に心をくばりました。禅師の人生訓を歌い込んだ盆踊り唄「いろは口説」は有名で、今も町民に親しまれ、唄い継がれています。

51.佐土原町古墳

(県指定 史跡)

所在地:佐土原町上田島字居穴口ほか
指定:昭和10年7月2日

佐土原町上田島地区(字居穴口、中坪、鶴府、山倉、平田迫、鴨之口、佐野原、二月田、花下)に35基の横穴墓が確認されます。また、平成10年に発見された1基(平田迫1号)を含めて「上田島横穴墓群」とも呼ばれています。

52.那珂村古墳

(県指定 史跡)

所在地:佐土原町東上那珂字牛ヶ迫ほか
指定:昭和12年7月2日

佐土原町東上那珂地区(字井出下、牛ヶ迫、大久保、寺田、久保田、阿蘇田、山崎)に24基の横穴墓が確認されます。

53.広瀬村古墳

(県指定 史跡)

佐土原町

所在地:佐土原町下那珂七ヶ廻ほか
指定:昭和14年1月27日

広瀬村古墳は、佐土原町下田島・下那珂に所在します。前方後円墳などの墳丘をもつ古墳と、土器田横穴墓群、広瀬城ヶ峰横穴墓群、岩穴ヶ迫横穴墓群の横穴墓から成り、現在は、前方後円墳1基(ほかに未指定墳1基有)、円墳15基、横穴墓42基が残っています。

54.僧日講遺跡

(県指定 史跡)

僧日講遺跡
日講絵

所在地:佐土原町上田島今坂
指定:昭和17年6月23日

日 講上人は日蓮宗不受不施派の最高の学識者として尊敬されていましたが、不受不施の教えを貫いたため、江戸幕府によって、寛文六年(1666)佐土原藩に預 けられました。当時の四代藩主島津忠高は幕府から追放された上人を手厚くもてなし、藩士もいろいろな教えを受けました。上人はこの地で、日蓮宗の入門書と して現在も大切にされている「録内啓蒙四十二冊」を著したほか、上人が没するまでの三十二年間の日記「説黙日課」を残しました。この日記は当時の佐土原の 様子を記した大切な資料となっています。

55.去川の関跡

(県指定 史跡)

去川の関跡

所在地:高岡町内山(国道10号線敷)
指定:昭和8年12月5日

二見家の伝記によると、伊勢国の国守であった佐々木義秀の家臣、伊勢二見ケ浦の城主二見岩見守久信は、今から約450年前の永禄年間(1558年~1570年)に、織田信長に攻められて、薩摩の蒲生郷に逃れ移ったと伝えられています。天正年間(1573年~1591年)の中頃には、島津氏の勢いが大変強く、第16代島津義久は近隣諸国をことごとく討ち従えていました。義久は、国境の防備を固めるため関所を去川(左流川)に設け、御定番に二見岩見守久信を命じました。以来、二見家は、十一代にいたるまでこの関所の御定番を勤めましたが、廃藩置県(1871年)のため関所も御定番も廃せられてしまいました。

去川の関所は、高岡郷、穆佐郷、綾郷、倉岡郷、そして支藩佐土原へ通ずる薩摩街道の大事な地点にあり、たいへん厳しい取調べが行われていた所といわれています。

当時は、現在の去川小学校の門前に渡船場があって、旅人は渡し船で関所にたどり着き、ここで改められて薩摩藩の旅に着きました。今では、その遺跡として門柱の礎石が一つ残っているだけです。

56.高岡町古墳

(県指定 史跡)

高岡町古墳

所在地:高岡町花見
指定:昭和17年6月23日

東高岡地区にある円墳3基が(総称)「高岡町古墳」として県の指定史跡となっています。大淀川左岸の台地上に立地し、字二ツ塚に「二ツ塚古墳」と呼ばれる2基(高岡町古墳1号墳、2号墳)が、字下ノ坊に「城ヶ峰古墳」と呼ばれる1基(高岡町古墳3号墳)があります。

57.清武上猪ノ原遺跡

(県指定 史跡)

清武上猪ノ原遺跡

所在地:清武町船引5582-1

指定:平成27年2月23日

清武上猪ノ原遺跡は、船引地区の清武川左岸のシラス台地上(標高約63m)に立地し、平成17年7月から平成20年5月にかけて実施された発掘調査では、旧石器時代から中世までの幅広い時期の資料が多数発見されました。

その中で特筆すべきは、全国最大級の縄文時代草創期集落跡で、計14棟の竪穴住居跡が発見され、日本列島における移動生活から定住生活への移行を知るうえでの極めて貴重な資料となっています。

各時代において、貴重な資料が多数発見されていますが、特に縄文時代草創期と早期のものは、その質・量ともに群をぬいており、全国的にみても非常に価値の高い遺跡との評価を受けています。

 

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