市指定有形文化財

60.木造六観音像

(市指定 有形文化財)

木造六観音像の写真

所在地:大塚町城ノ下2825番地(長久寺)
指定:昭和48年3月12日

六観音像は、長久寺の御本尊で像高34.3~36.5センチを測ります。十一面観音、千手観音、准脂観音(上段左から)、馬頭観音、如意輪観音、聖観音(下段左から)の各観音で構成されています。

像の頭部内面や台座に「永禄六年、奈良宿院仏師源次」その他の墨書銘があり、当時奈良地方を中心に活躍していた著名な仏師集団の作であることがわかります。
六観音については、宮崎県内には他に類例がなく、また奈良地方に同じ作者の遺品が知られています。これは、当時の奈良地方と宮崎地方との交流を知る上で、注目、尊重すべきものです。

61.舞楽面陵王

(市指定 有形文化財)

舞楽面陵王の写真

所在地:新名爪4449番地(新名爪八幡宮)
指定:昭和48年3月12日

この面は、縦30センチ、横18センチ、鼻の高さ13.5センチで、室町時代の作です。

舞楽面は全国に散在していますが、中でも陵王の面は、九州地方では福岡県観世音寺、大分県宇佐八幡宮と、この新名爪八幡宮の3面に限られています。本面は豊後宇佐八幡宮との関係において存在し、その南限と思われます。

また、新名爪八幡宮の氏子たちにとっては、「不老面」と呼んで崇敬厚く、一方では恐怖感を抱きながら権威ある面として信じられ保存されてきており、文化史的、民俗学的意義のある面です。

62.木造阿弥陀如来立像一躯

(市指定 有形文化財)

木造阿弥陀如来立像一躯の写真

所在地:熊野9508番地(木花神社)
指定:昭和49年4月15日

像高は99.0センチで、螺髪に施毛を刻んだ頭部を作り、衲衣を付け来迎印を結び、蓮華座に立つ如来像です。寄木造りで漆箔、玉眼を嵌め込んでいます。

これは、鎌倉時代初期の仏師快慶の作風に習う、いわゆる安阿弥様の弥陀立像の一例です。時代としては、鎌倉時代中期以降のものとみられ、衣褶がやや形式的に流れるあたりにそれが表れています。県下に数少ない鎌倉彫刻の一例として尊重すべきものです。

快慶は、法印という仏師の僧位の最高位には達しませんでしたが、快慶様式を展開する中で、建仁3年(1203)に法橋に、承元2年(1208)から4年の間には法眼に達したすぐれた仏師でした。

63.木造十一面観音立像一躯

(市指定 有形文化財)

木造十一面観音立像一躯の写真

所在地:広原4401番地(畑公民館)
指定:昭和49年4月15日

蓮華座に立つ190.0センチの観音像です。髻長に仏面、外頭上面の二段に十一面をもち、垂髪を両肩に重し、左手は屈臂して宝瓶をとり、右手は垂下、掌を内にして握ります。条帛をかけ裳をつけ、両足を揃えて立つものです。

鎌倉時代末期から南北朝時代頃にかけて流行した古代の一木彫成像の一例です。衣文の彫り口の深い刀技あるいは蓮弁の形成等には鎌倉時代後期の特色がみられます。ケヤキ材を用いた堅固な一木造りの等身像の構造に表現された剛健な作風は、鎌倉時代末期の仏像の作例として注目されます。

64.木喰行道筆南無薬師如来書画幅一軸

(市指定 有形文化財)

木喰行道筆 南無薬師如来書画幅一軸の写真

所在地:金崎914番地(朝倉寺)
指定:昭和58年3月16日

この書画幅は、木喰遊行者一般の作品にみられる大幅で、唐紙全紙を3枚継いで約4メートルの全長をもっていたものと堆定されますが、現在は下部20センチ、上部約70センチを欠損し、全長3.18メートル、幅56センチです。

書かれた書画も極めて特色を有するもので、日本宗教史の重要課題となってきた遊行者の研究の貴重な資料ということができます。

文字の書法は双鈎体で曲線的筆法です。大師様に似ていますが、最も大きな特色は、双鈎の空間を種々の装飾的デザインの模様で埋めつくしていることです。この手法は、木喰行道の晩年の書画幅に共通しています。

65.木喰行道作千手干眼十一面観音立像一躯

(市指定 有形文化財)

木喰行道作 千手干眼十一面観音立像一躯の写真

所在地:有田(個人)
指定:昭和58年3月16日

この像は、総高53.3センチ、像高31.8センチの小像です。

彫技は、丸みのある彫り方で台座の扱いが木喰仏の特色を示し、台座銘の署名によって木喰行道の作と認定することができます。

本尊に対する信仰は、その霊験によって近辺の崇敬は厚かったといわれます。ことに、子供を守る観音として、虚弱な子供は「観音さんに預かってもらう」といった「観音の子」になる立願があり、これは、「山伏の取り子」の信仰習俗にも共通するものです。

66.下郷遺跡出土絵画土器

(市指定 有形文化財)

下郷遺跡出土絵画土器の写真

所在地:芳士2258-3(みやざき歴史文化館)
指定:平成14年10月28日

下郷遺跡は、大淀川左岸北側標高約90mの洪積台地の南、下北方丘陵東南部の先端標高約30mの独立した小丘陵上に立地します。調査の結果、弥生時代の竪穴住居22軒、竪穴状遺構25基、貯蔵穴19基、土坑22基、溝状遺構1条が検出された他、集落を囲む状態で断面V字の弥生時代前期から中期の環濠がめぐっていることが確認されました。県内で初めて環濠集落全体を調査した遺跡です。

絵画土器は土器の壁面に絵画を描いたもので、多くが壺型土器に描かれ、画題はシカが最も多く、動物やヒト、人面、建物、竜などがあります。弥生時代中期に盛隆がみられますが、宮崎地方では後期になり登場し、宮崎平野周辺に多く出土しています。宮崎における絵画土器は単体での出土が多いのですが、下郷遺跡では、貯蔵穴から3個同時に出土しており、また、絵画は通常壁面の一部に描かれることが多いのに対して、壺の壁面全体を使っているなど特異性があります。

67.生目神社木造神面(二面)

(市指定 有形文化財)

紀年不詳神面 元文三年銘神面の写真

(紀年不詳神面元文三年銘神面)

所在地:大字生目345番地
指定:平成16年3月29日

一面は、縦24.4cm、横18.2cm、鼻の高さ11.3cmを測り、当社の鬼形面中では小型のものです。裏の仕上げの状態から奉納するためにつくられたものと思われます。元文在銘の面にくらべて自在に彫られていることから制作はこれより古く、残存する「□六丑年」の銘から、慶長六年(1601)の作と推定されます。奉納面の一資料として貴重です。

元文三年銘の神面は、縦30.6cm、横30.2cm、鼻の高さ17.5cmを測る大ぶりの面です。鼻と口は大きく彫られ、肌を朱色に、髪と眉・瞳孔を墨で黒く、歯を白色に塗る。その特徴から、近世におけるこの種の仮面製作の一端を窺える貴重な遺品です。

当社には、他に寶治二年銘神面と天文五年銘神面の2面が伝えられ、4面それぞれがその時代の歴史的・文化的資料として貴重であり、中世から近世にかけての当社の信仰状況を連続して示すものとして重要です。

68.商家「旧阪本家」

(市指定 有形文化財)

商家「旧坂本家」

所在地:佐土原町上田島1601番地2
指定:平成12年5月23日

「旧阪本家」は江戸期から続く味噌・醤油醸造及び刻煙草の販売を営む商屋で、隆盛を極めた明治38年に現存の建物を築造したことが、棟札により特定できました。

この建物は、重層入母屋創りの平入りで、1階は片屋根になっています。1階は玄関土間、和室(8帖・6帖・6帖・4帖半)床の間・縁・階段で構成され、2階は和室(8帖)・床の間・板の間(6帖・12帖)縁側・廊下で構成されています。戸袋の腰壁は海鼠壁で明治期のままです。建物の東側に庭があるが、明治期の姿を残す貴重な憩いの景観です。屋根瓦は古い瓦とその後の瓦と混在して使用されていました。古い瓦の軒瓦には平の型があり、坂本家の屋号を表しています。大棟の鬼瓦には「木瓜」の家紋が入れてあり、商屋の威風を示すシンボルです。

また、平成20年12月1日、宮崎市景観重要建造物に指定されました。

69.二ッ建天神社天満縁起絵巻

(市指定 有形文化財)

二ツ建天神社満縁起絵詞

所在地:佐土原町下田島8202-1(佐土原歴史資料館出土文化財管理センター寄託)
指定:平成17年10月26日

県内では類を見ない絵巻物として大変貴重な物です。描かれた年代は慶長11年(1606)2月21日と記されおり極彩色の絵巻物で、菅原道真公が天神様になったその訳などがわかりやすく描かれています。

70.梅谷橋(石橋)

(市指定 有形文化財)

梅谷橋

所在地:田野町梅谷
指定:平成15年6月10日

梅谷橋は、同地区から尾平を結ぶ道路開通によって、山住川に架けられたものです。石工奥園末吉氏が請け負い、梅谷、尾平間の道路開通に要した日数は百余日、総工費千八百円、夫役は延べ三千二百人で、昭和三年四月二十四日に完成しました。

71.黒草水路橋

(市指定 有形文化財)

黒草水路橋

所在地:田野町楠原
指定:平成15年6月10日

黒草水路橋は、山下川にかかる橋で、橋の上部に水路が設けられています。この用水路は、水量の豊かな別府田野川上流のきれいな水を黒草や楠原の田や集落に送るためのもので、利用者で掃除や水量の管理を行ない大切にされています。

72.河上家武家門

(市指定 有形文化財)

河上家武家門

所在地:高岡町内山2700
指定:昭和54年1月24日

高岡郷の武家門は、長屋門、観音開門、引戸門の三種類に区別されます。観音開門は、左右いずれか一方にくぐり戸がとりつけられて、夜間の出入りに使用されていました。また、門の構造は後方に控柱を付した腕木門の形態で、薩摩藩独特のものです。河上家武家門は、型や使用材料などに優れており、建築は、棟札に正徳元年(1711)とあり、今から約300年前のものといえます。観音開門の代表的なもので、弓術の指南家、禄高200石程の高禄武家のものといわれています。

73.高岡名勝志

(市指定 有形文化財)

高岡名勝志

所在地:高岡町内山3003-56(天ケ城歴史民俗資料館)
指定:昭和54年1月24日

薩摩藩は102の郷に命じて郷内の史料を藩庁に提出させ、後に「三国名勝図会」の資料としました。高岡名勝史は、文政7年(1824)に藩庁に報告をしたものの控で、横20cm、縦28.5cm、本文230枚で、高岡の楮紙でつくられています。

郷内の村里、寺社、古跡などの位置、沿革などさまざまなことが書き記されており、藩政時代の高岡を知ることができる唯一の貴重な古文書です。

74.練士館の扁額

(市指定 有形文化財)

練士館の扁額

所在地:高岡町内山3003-56(天ケ城歴史民俗資料館)
指定:昭和54年1月24日

練士館は、嘉永5年(1852)第28代島津家当主島津斉彬が、郷士の子弟の学問や武術を教える学校として創らせたものです。この練士館は、現在の高岡小学校の前身で、初代の句読師(現在の校長)は、高岡の人で、大迫弥次右衛門でした。この扁額は、縦40cm、横148cmで谷庵の書とあります。

75.高岡郷士高帳

(市指定 有形文化財)

高岡郷士高帳

所在地:高岡町内山3003-56(天ケ城歴史民俗資料館)
指定:昭和61年1月20日

高岡郷士高帳は、薩摩藩の外城の一つである高岡郷の郷士禄高を記載した貴重な史料です。郷士禄高のはかに、その家族構成(男子のみ)や寺高なども知ることができます。それによると、文政13年(1830)当時、郷士惣高10,329石余り、郷士数1,457人(高持496人、高持無屋敷136人、嫡男・次男・三男他705人)であったとあります。

高岡郷士高帳は、横21cm、縦28cm、本文158枚で構成されています。

76.市来家長屋門

(市指定 有形文化財)

市来家長屋門

所在地:高岡町五町354番地
指定:平成9年6月19日

長屋門は、門の出入り口通路の両側または片側に部屋が設けてある門で、高岡町内では、市来家長屋門が現存する唯一のものです。

一般的な長屋門と違って、門と長屋の高さを異にしているところに特徴があり、門が長屋に合体する以前の姿をとどめているところから、初期的な形態をした長屋門として他に例がなく貴重なものです。また、肘木にほどこした彫刻もなかなか見事であり、格式の高さをうかがい知ることが出来ます。建築年代は不明ですが、安政5年(1858)の大火で一度消失し、その直後に再建されたと考えられます。

市来家は、享保10年(1725)に第6代善助が柔術渋川流の師範、第12代政徳が剣術真影流の師範となるなど(天保年間)、武術の家柄として栄えました。

77.安藤家武家門と石垣

(市指定 有形文化財)

安藤家武家門と石垣

所在地:高岡町五町266番地
指定:平成10年4月16日

高岡郷に残る江戸時代の武家門の一つです。扉は観音開きで、後方に控柱を付した腕木門の形態は、薩摩藩独特のものです。安政4年(1857年)正月の大火で焼失し、まもなく再建されたと伝えられています。高岡郷の武家屋敷の垣は、本来は竹の生垣にして、横二段に割竹で固定したもので、石垣は許可されていませんでした。石垣ができたのが幕末頃になってといわれています。石垣の石材は、溶結凝灰岩で通称高岡石と言われ、浦之名地区や浜子地区の山で切り出されたものでした。石の性質が非常にやわらかいため、石垣や墓石などに使用されました。

安藤家は、慶長5年(1600)の高岡郷創設当時、佐土原から召し移された家で、安永8年(1777)の「高岡衆中高帳」によれば、禄高93石余りと、高岡でも上級武士でした。

78.赤谷橋(石橋)

(市指定 有形文化財)

赤谷橋

所在地:高岡町浦之名字赤谷(県道赤谷橋山線道路敷)
指定:平成14年8月12日

石造アーチ橋で、壁石の積み方は布積です。橋長11.3m、アーチスパン5.5m、高さ4.3m。現在も県道赤谷・橋山線として供用中です。建造年代は地区の古老の話によると、明治20年頃といわれています。

79.鵜木橋(石橋)

(市指定 有形文化財)

鵜木橋

所在地:高岡町浦之名字赤谷(県道赤谷橋山線道路敷)
指定:平成14年8月12日

赤谷橋と同様の石造アーチ橋で、壁石の積み方は布積です。橋長12.0m、アーチスパン5.4m、高さ4.3m。現在も県道赤谷・橋山線として供用中です。建造年代は地区の古老の話によると、明治20年頃といわれています。

80.去川関所御定番二見家住宅(主屋一棟)

(市指定 有形文化財)

二見家住宅

所在地:高岡町内山3627番地
指定:平成16年10月13日

去川関所御定番二見家屋敷の屋敷は、薩摩街道に面した小高い場所に位置しています。

住宅は、旧薩摩藩内特有の座敷棟・居住棟を「テノマ」で繋ぐ分棟型建物です。平成17年度~20年度にかけての解体復元修理によって増改築などの歴史が明らかになりました。座敷棟は安政2年(1855)、居住棟は明治28年に建設、大正3年に西大下屋の修理、昭和11年に茅葺を瓦葺きとし、昭和41年に屋根瓦の部分修理と瓦漆喰を施していました。昭和43年には座敷棟の東裏便所と座敷・次の間に回り縁を設け、居住棟は室内便所・風呂場等を敷設していました。

二見家は、「高岡郷士系譜」によれば禄高77石とあり、年賀の折には藩主に御目見えするなど、格式の高い家として高岡郷でも重きをなしてきました。

81.木造弘法大師像

(市指定 有形文化財)

木造弘法大師像

所在地:大塚町城ノ下2825番地(長久寺)
指定:平成20年12月1日

本像は、16世紀に奈良宿院町に仏師屋を構えて活躍した「宿院仏師」の作品のひとつです。「宿院仏師」は、建築土木の木工事に携わった番匠の出自で、後に仏師として自立した工人集団であり、俗名をそのまま作者名とすることから俗人仏師ともいわれています。「宿院仏師」作の仏像のほとんどは、奈良文化圏に所在し、一部、京都、大阪、三重、神奈川、徳島、佐賀、宮崎にその作品が残されています。

長久寺の弘法大師像は、像内に「永禄六年八月」「作者源次源四郎源五郎良紹」の墨書があり、肩書きはないが、源次とその息子達の宿院仏師一門によるものです。他にも像内には、「法師清志大和尚御修繕百四世法師勝雲」「櫟屋殿御刀始」の墨書と胎蔵大日真言の種子が記されています。像は、同寺に伝わり、先に市有形文化財に指定されている「木造六観音像」(永禄六年作)とともに、奈良宿院町の工房で制作され、宮崎に運ばれてきたものと思われます。

このように本像は、制作年、作者が判明しており、中世末期の奈良と宮崎との繋がりを示す貴重な資料であり、文化史の面からだけでなく、流通経済史の資料としても価値のあるものと考えられます。

82.木造乾峰士曇像

(市指定 有形文化財)

所在地:佐土原町上田島767(大光寺)
指定:平成21年11月11日

83.木造岳翁長甫像

(市指定 有形文化財)

所在地:佐土原町上田島767(大光寺)
指定:平成21年11月11日

84.安井文庫29点

(市指定 有形文化財)

明教堂棟札

所在地:清武町加納甲3378-1(きよたけ歴史館)
指定:昭和45年7月23日

安井文庫は、昭和10年(1935)の昭和天皇の行幸を記念して創設されたものです。当初は、息軒旧宅に隣接して設置されていましたが、現在は、きよたけ歴史館に保存されています。

この文庫には、安井息軒及び父滄洲自筆の遺稿や書籍のほか、郷校明教堂の棟木、息軒遺稿の版木なども収められており、父子の業績を知るうえで貴重な史料と言えます。

85.弥勒寺六地蔵塔

(市指定 有形文化財)

弥勒寺六地蔵塔

所在地:清武町船引柿ノ木田(赤道)
指定:昭和53年9月8日

清武町船引地区は、「日向国図田帳には、弥勒寺領として「船曳五十丁」と記されています。古代から中世にかけて、豊前国宇佐八幡宮の神宮寺として建立された弥勒寺の荘園として支配されていました。中世以前には、この地にも弥勒寺という寺院があったようです。平部きょう南の著した『日向地誌』には、「船引神社ノ北一町許ニアリ」と記されています。

現在、この六地蔵塔は、船引神社の東方150mの水田の片隅にあります。高さ90cmの台石の上に、高さ35cm、直径35cmの龕部があり、その上に厚み13cm、直径67cmの扁平の石が笠として載せられています。台石に文字が書かれていたとありますが、現在では判読できない状態となっています。『日向の金石文』(昭和17年、宮崎県発行)では、この年号を「□□□八年辛巳」とし、永正18年(1521)に比定しています。

地蔵は、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の六道の姿となり、一切の衆生を救おうとした願いをこめて建立されたもので、石像物としても高く評価されるものです。

86.神宮寺六地蔵塔

(市指定 有形文化財)

神宮寺六地蔵塔

所在地:清武町船引6624-1
指定:昭和53年9月8日

船引神社の西方50mの市道沿いにあり、神宮寺にまつわる六地蔵塔として伝えられています。神宮寺は、中世以前にこの地にあった寺院で、平部きょう南の著した『日向地誌』には、「弥勒寺ノ西四十間許ニアリ」と記されています。

この六地蔵塔は、六角形の基礎の上に、八角形の幢身、六角形の笠より成る単制形式で、幢身の下には永禄12年(1569)2月の年号が刻まれています。

87.内山寺仁王像

(市指定 有形文化財)

内山寺仁王像

所在地:清武町船引1592
指定:昭和53年9月8日

内山寺参道の石段を登りつめたところに、平賀快然が彫刻した仁王像が建っています。銘には延享2年(1745)6月に、大久保の祇園山大仙寺の住職功厳恵勲が願主となり、実父母にあたる成合厳右衛門・明春夫妻の菩提を弔うために建立したことが刻まれています。

作者平賀快然は、飫肥藩清武郷今江村現・宮崎市木崎)出身の禅僧であり、仏師でもありました。元禄16年(1703)から宝暦7年(1757)にかけて活躍し、仁王像・地蔵菩薩像など、旧清武郷内(宮崎市南部)を中心に多数の作品を残しています。

88.安井息軒衣服18点

(市指定 有形文化財)

道中羽織

所在地:清武町加納甲3378-1(きよたけ歴史館)
指定:昭和53年9月8日

きよたけ歴史館には、昭和50年(1975)の息軒先生百年祭の折に安井四郎氏(息軒の曾孫)から清武町に寄贈された、安井息軒着用の衣服18点が保存されています。
水戸徳川斉昭から拝領の絹綿入、飫肥藩主伊東祐相から拝領の麻織のほか、息軒が実際に愛用した羽織・袴類まで良好に保存されており、彼の人となりを知るうえで貴重な品々と言えます。

89.安井息軒書簡

(市指定 有形文化財)

安井息軒書簡

所在地:清武町加納甲3378-1(きよたけ歴史館)
指定:昭和53年9月8日

きよたけ歴史館には、昭和50年(1975)の息軒先生百年祭の折に安井四郎氏(息軒の曾孫)から清武町に寄贈された、安井息軒に関係する書簡27点が保存されています。

このうちの21通が息軒直筆の書簡で、慶応2年(1866)から明治6年(1873)までの約8年間にわたり、長女須磨子や孫小太郎などに宛てて書き綴られています。また、残りの6通には、飫肥藩主伊東祐相、高鍋藩主秋月種樹、彦根藩主井伊直憲など、息軒と親交の深かった諸大名からの書簡も含まれており、各地に広い人脈を持つ息軒の人となりを知るうえで貴重な史料と言えます。

90.炎尾権現御本地文書

(市指定 有形文化財)

炎尾権現御本地文書

所在地:清武町加納甲3378-1(きよたけ歴史館)
指定:昭和56年2月1日

清武町庵屋に鎮座する炎尾権現社(炎尾神社)は、旧名は六社大権現といい、承和10年(843)に霧島山の峯の炎を勧請したと伝えられています。

御本地文書は、代々同社の社人で村役を務めた野崎家に伝えられたものです。神社の由緒のほか、中世末期以降、寛政年間(1789~1800)までの記録が記されており、幕府領・延岡藩領と支配を繰り返した複雑な経緯をもつ船引村の支配構造を知る上で貴重な史料と言えます。

91.船引神社雲竜巻柱

(市指定 有形文化財)

船引神社雲竜巻柱

所在地:清武町船引6622(船引神社)
指定:昭和61年3月31日

船引神社本殿の向拝柱には、雲の中を泳ぐ竜が浮き彫りにされた姿が見られます。柱の高さは2m35cm、幅は25~30cmで、嘉永6年(1853)11月吉日、宮崎本郷北方の大工川崎伝蔵の墨書が残されています。

この種の雲竜巻柱は、県内では、県北の延岡藩領と県央から県西にかけての薩摩藩領・幕府藩領にあり、粟野神社(宮崎市高岡町)や本庄八幡神社(国富町)などに例を見ます。

92.黒坂観音仁王像

(市指定 有形文化財)

黒坂観音仁王像

所在地:清武町木原6329-1
指定:昭和61年3月31日

黒坂観音堂の入口正面に安置されています。元は長徳山勢田寺の山門として建立されたもので、明治初めに勢田山が廃寺となった後も仁王像はそのまま残されていましたが、大正10年(1921)に現在地に移されました。

作者は内山寺仁王像と同じ平賀快然で、勢田寺の住職快厳の代に木原郷中の寄進によって建てられたものです。今では銘文も不明瞭となっていますが、一説には、宝暦3年(1753)建立とも伝えられています。像の高さは1m95cm、横幅1m、奥行45cm。

93.黒坂観音厨子

(市指定 有形文化財)

94.千手観音自在菩薩

(市指定 有形文化財)

黒坂観音厨子・千手観音自在菩薩

所在地:清武町木原6329-1
指定:昭和62年12月11日

千手観音自在菩薩は、元は長徳山勢田寺に祀られていましたが、明治初期の廃仏毀釈に際して、黒坂観音として現在地に移されました。像の高さは97cm、寄木造の立像で、鎌倉時代の特徴を残しています。昭和63年度には、破損が著しいということで、京都国立博物館美粧院により保存修理が施されました。

黒坂観音厨子は、千手観音自在菩薩が安置されている厨子で、現在は昭和63年に新築された観音堂内に納められています。残念ながら、組物から上部が失われていますが、軸部や扉など、残りの部分には16世紀前半の禅宗様式が見られ、全体的に地方的崩れの少ない厨子として高く評価されています。

95.秋葉大権現像

(市指定 有形文化財)

秋葉台権現像

所在地:清武町加納甲3378-1(きよたけ歴史館)
指定:平成22年2月3日

秋葉大権現像は、木喰行道の彫刻で、元は清武町新町に安置されていましたが、現在はきよたけ歴史館に保存されています。

木喰行道は、江戸時代中期に全国行脚をしながら仏像などを制作した人物で、天明8年(1788)から寛政9年(1797)の10年間、日向国分寺(西都市)に住職として滞在し、同寺の五智如来像(宮崎県指定有形文化財)や千手千眼十一面観音立像(宮崎市指定有形文化財)などを制作しました。彼が本像を手がけた記録は残っていませんが、地元には、当時大火があったことや、大火の後高僧が訪れ秋葉権現を彫ったという逸話が残されています。

その形状は、カラス天狗の顔と人間のからだを持ち、頭髪は渦を巻いて流れ、悪霊に見立てたキツネを足元に配しています。その削りの粗さにより生き生きとした作風が漂い、火の神としての威圧感も十分に漂っています。

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