-------------891text08------------- 特集 新春特別企画 宮崎の城を知ろう ! 宮崎市には、国指定史跡の穆佐城、佐土原城のほか、国指定史跡を 目指す宮崎城があります。今回は、天守を持つ貴重な城郭跡で、 1997年以来20年ぶりに発掘調査を行った佐土原城を時空案内人(タイムトラベラー)・ カツシゲ君と一緒に紹介します。 まずは宮崎市の 三大名城を 紹介するね! Mukasa 国指定史跡 穆佐(むかさ)城 穆佐院高城ともよばれ、三股院高城(みまたいんたかじょう)(都城市)、新納院高城(にいろいんたかじょう)(木城町)とともに日向三高城として知られた有名な中世の山城です。現在でも大規模な城の全容が良好な状態で保存されています。標高約60mの丘陵上に造られた全長600mの山城で、大規模な空堀によって大きく4つの地区(曲輪(くるわ)群)に分かれています。防御性を発揮しやすいシラス性丘陵に立地し、大きな空堀で区切った独立性の高い曲輪群を並列させる造り方は、南九州地方の山城の特徴でもあります。 Sadowara 国指定史跡 佐土原城 佐土原城の特徴は、中世から近世の長期間にわたり地域統治の拠点となったことです。山上の山城部と山下の平城部から成り、山城部は中世に多くの防御施設が造られた一方で、平城部は近世における藩政の象徴として屋敷が建ち並んでいました。田島伊東氏の築造にはじまる城は、自然の地形を利用した中世の典型的な山城で、伊東義祐の頃、難攻不落の城として整備され、日向国48城支配の要となりました。近年の調査によって南九州では例を見ない天守台を備え、金箔鯱瓦(きんぱくしゃちかわら)を使っていたことがわかり重要さが再認識されています。 Miyazaki 国指定史跡を目指す 宮崎城 宮崎城は、池内町から大字上北方にかけて連なる標高約90mの丘陵上に位置する中世の山城です。曲輪や堀切、土塁などの遺構が非常に良好な状態で残されており、その歴史は14世紀の南北朝期にさかのぼるといわれています。南北朝期以降は戦国期まで、伊東氏の支族が城主を務め、伊東氏の没落後は島津氏の家臣が城主を務めました。その一人である上井覚兼は詳細な日記を残しており、城内の構造や戦、日常の信仰、儀礼など当時の様子をうかがうことのできる貴重な史料となっています。江戸時代になり、一国一城令によって廃城となりました。 -------------891text09------------- 佐土原城関係 主な登場人物 タイムトリップの前に、 佐土原城に関わった 主な登場人物を頭に 入れておこう。 伊東 義祐 (いとう よしすけ) 1512年~1585年 天文5(1536)年、日向伊東氏11代当主として佐土原城へ入る。飫肥を領する島津豊洲家との長い戦いの末、島津氏を制し、飫肥を知行。後に日向国内各地に築いた城は「伊東四十八城」と呼ばれ、最盛期を迎えるが、真幸(まさき)院の領地をめぐる木崎原の戦いで大敗し、勢力は衰退。天正5(1577)年、豊後国の大友宗麟を頼り落ち延びた。 島津 豊久 (しまづ とよひさ) 1570年~1600年 天正15(1587)年、父・家久の家督を継いで佐土原城の城主となる。豊臣秀吉による小田原攻めや朝鮮出兵にも従軍し、武功を上げた。慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いに島津義弘と共に参戦。戦況不利となり、義弘を生きて帰すため豊久が身代わりとなり、徳川軍の本多忠勝、井伊直政部隊に駆け入り討ち死にした。 島津 以久 (しまづ ゆきひさ(もちひさ)) 1550年~1610年 島津豊久の戦死後、佐土原城は城主不在となり徳川領となったが、慶長8(1603)年に徳川家康から佐土原を与えられ、佐土原藩の初代藩主となる。家康の天下普請(ふしん)の命により、駿府城普請を助け功績を上げる。その後、篠山城普請で出向いた京都にて死去。以後、佐土原は以久の子孫が継承する。 そして今回の特集キャラクター カツシゲ君 (発掘調査を担当する文化財課の調査員) オレの紹介はいいから。 さて、前置きは ここまでにして いざ出発。 みんな行くよー、 準備はいいかな? カウントダウン スタート! 3、2、1、GOー! イラスト(原画)は、時代考証を基に 文化財課金丸武司主査が作成しました。