特集1 戦後70年企画 あの夏を忘れない  太平洋戦争の終結から70年の節目を迎えるこの夏。当時を知る皆さんに話を聞きながら、宮崎市にも色濃く残る戦争の記憶をたどり、今できることを考えます。 Part1 宮崎にあった特攻隊基地  現在の宮崎ブーゲンビリア空港は、かつて特攻隊が飛び立っていった海軍赤江飛行場でした。現地を訪れた読者リポーターの声も交えながら、その歴史を見つめました。 後列左から:村尾龍矢さん・成瀬優子さん 前列左から:村上毅さん・杉村絵理子さん 宮崎特攻基地慰霊碑  JR宮崎空港線の高架をくぐった先にあります。旧赤江飛行場から出撃して亡くなった人、宮崎県出身者で旧赤江飛行場以外の基地から発進した人をまつった慰霊碑です。 桜の植えられた静かな場所です  慰霊碑の手前には、赤江海軍練習航空隊が発足した当時に設置されたという門柱があります。  20歳で亡くなった特攻隊員の遺書がしたためられた石碑があります。  慰霊碑の建立に尽力されてきた丸山さん。貴重なお話に、読者リポーターが熱心に聞き入ります。 村尾龍矢さん:当時を物語る貴重な遺構ですね  慰霊碑敷地内で保管されている品々。帽子や水筒、ラッパなど、当時の生活を思わせます。 成瀬優子さん:どんな物かとても興味がわきますね 杉村絵理子さん:無事を祈る家族の思いが伝わってきます  勲章について質問する読者リポーターの成瀬さん。出兵した人に戦後、授与されたものだそうです。 成瀬優子さん:箱に何か書いてありますね  「赤とんぼ」と呼ばれた練習機。終戦間際は、この練習機にも爆弾を積んで出撃していったそうです。 村上毅さん:もっと詳しく知りたいと思いました [戦争を記憶するスポット] いとし子の供養碑 宮崎大学教育文化学部附属小学校  宮崎大学教育文化学部附属小学校では、昭和20年5月11日の空襲で12人の児童が亡くなりました。その供養のためにつくられたのが「いとし子の供養碑」です。  その日は授業の途中で空襲警報が鳴り、子どもたちは全員校庭に集合して避難を開始。江平池(今の中津瀬町付近)に差し掛かったところで空襲にあったそうです。同校では中学年用の教材「ソテツの話」として、この時の様子をまとめていますので、一部を引用して紹介します。  「ふせろ。」という先生のどなるような声。女子の班は江平池の方にふせた。男子の班は、反対の田んぼの方にとびこんだ。先生の声と同時に、ざざざっ、という音とどかん、という音がして地面が大きくゆれたんじゃ。そして、土がばらばら、って落ちてきたんじゃ。 [中略] いとし子が永久に安らかでありますように 供養碑への誓い 平和への道しるべ 平和への道 いとし子の道 同校では、戦争の犠牲となった先輩達の供養をしながら、平和の大切さや命の尊さを感じ取る取り組みをしています。 インタビュー もっと多くの宮崎の人に宮崎特攻基地慰霊碑を知ってほしい  この場所に慰霊碑を作ろうと動き始めたのは昭和57年のことで、その翌年の昭和58年から慰霊祭を行ってきました。戦時中の飛行場が今も使われているのは、全国でも鹿屋基地と宮崎空港だけです。数年前からは赤江小学校の子どもたちが社会科学習で現場に来てくれるようになりました。海軍赤江飛行場の歴史をもっと多くの宮崎の人に知っていただきたいと思っています。 丸山正行さん(88歳) 丸山さんを囲んで学習を深める赤江小学校の子どもたち(5月21日) 特攻隊として、8月15日が出撃予定日でした  私はかつて、海軍の一員として沖縄で任務に就いていました。11か月の滞在中、潜水艦への爆撃や輸送船団の護衛をしていたのですが、戦局が次第に悪化し、台湾で特攻隊に編成されました。私の番が近づいた時、木更津の新鋭機「彩雲」特攻隊に転勤、黒光りする800㎏の爆弾をなでながら「これが俺の棺おけか」とつぶやいたものです。  出撃予定日は8月15日でしたが、待機命令が出て九死に一生を得ました。解散命令が出たのは8月23日で、四国でまだ戦う準備をしているさなかでしたね。恋も報われず、結婚もできず、子孫も残せずに亡くなっていった多くの若者たちが70年前にいたという事実を、ぜひ皆さんに知っていただきたいです。 にわつきの英樹さん(89歳) Part2 みんなで考えよう [読者リポーター◎インタビュー] どんなことが起こったのか 一人一人がきちんと向き合うこと。  これからも戦争の歴史を受け継いでいくために必要なこととは? 宮崎特攻基地慰霊碑を訪れた読者リポーター4人に聞きました。 成瀬さん:関東から宮崎に引っ越してきてまだ8か月なので、宮崎のいろいろなところに行ってみたいと思って参加しました。 村上さん:私も福岡から転居して宮崎に来たんですよ。 村尾さん:私も鹿児島出身です。知覧特攻平和会館には何度か行ったことがあります。一年前には広島で原爆ドームなどに行き、戦争に触れる機会が多くあったので、今日ここへ来てこういう場所を大切にしなくてはいけないと改めて感じたところです。 杉村さん:私は皆さんの中では唯一の宮崎市出身です。慰霊碑の存在を全く知らず、戦争に行かれた方のお話を直接聞くこともなかったので貴重な機会でした。 村上さん:70年前の話ですが、リアリティがないとは感じません。今の大河ドラマもたかだか150年前ですからね。 杉村さん:そうですね。私のような戦争を知らない世代でも、話を聞いたり訪れたりすることで感じるものがあります。歴史を伝えていく必要があると思いました。 成瀬さん:経験者が高齢であることがこれからの大きな問題。修学旅行で沖縄に行き、しらゆり学徒隊のお話を聞いたことがありますが、それもやがてできなくなります。 村上さん:どんなことが起こったのか、一人一人がきちんと向き合っていきたいですね。 村尾さん:鹿児島には知覧があるので、他の地域より戦争のことを身近に感じやすいとは思います。この慰霊碑も、宮崎の人にとってそうした場所になってほしいですね。 成瀬さん:戦争を直接知らない親や教師に育てられた私たちが、これから親になっていきます。子どもにどう戦争のことを伝えるのかを考え、意識していかなくてはならないと思います。 (左から)杉村さん、成瀬さん、 村尾さん、村上さん 読者リポーターによるリポートはコチラ 戦争を考えるための書籍紹介 宮崎市立図書館 司書 川畑香織さん 小学生向け  戦争にでかけたおしらさま  戦争に向かうことになった仙吉に、おばばは不思議な力が宿った家の守り神・おしらさまを持たせますが…。 さねとうあきら/作 [株式会社サンリード] 中学生・高校生向け  おじいちゃん戦争のことを教えて孫娘からの質問状  ニューヨークに住む高校生の孫娘からの手紙がきっかけで、かつて軍人を目指した祖父は戦争について語り出します。 [中條高德 著 致知出版] 大人向け  日輪の遺産  終戦間近に密命を受けた3人の軍人は、その密命遂行のために、集められた20人の少女に非情極まりない命令を下します。 [浅田次郎 著 角川書店] 二度と私たちのような被害者を出してはいけません  5歳の時、私は長崎で被ばくしました。稲佐山の近くにあった自宅でのお昼前のこと。自宅に戻った瞬間に大きな音が鳴り響き、瓦や土などあらゆる物が落ちてきたのです。周囲は真っ暗になりましたが、やがて明るくなるにつれ、道路は倒れた木材などで跡形もなくなっているのが分かりました。  三菱造船所で働いていた父と長姉を含め、8人いた家族はかろうじて全員無事でしたが、熱風に飛ばされた長姉は背中にひどいやけどを負いました。  原爆は年寄りも子どもも関係なく無差別に人を殺傷するもの。私たちのような被害者を二度と出さないためにも、原爆は決して作ってはなりません。  宮崎県原爆被害者の会には、被ばく経験を持つ約400人の会員がいますが、みな高齢です。今回のポスター展や私たちの語り部活動を通じて、一人でも多くの人にこの歴史を受け継いでほしい、平和であるためには何をすればいいか考えてほしいと願っています。 宮崎県原爆被害者の会宮崎支部長 児玉節男さん(75歳)  宮崎市生まれ。3歳の時に家族で長崎に移った後、5歳の時に被ばく。宮崎に戻ってからは、原爆の悲劇を伝えるために各種展示や語り部などの活動を続けている。 長崎市で万灯流しをする児玉さん 戦後70周年記念みやざき市民のつどい  宮崎市民が戦没者を追悼し、恒久平和を祈念します。献花などの追悼・平和式典のほか、語り部による戦争のお話、朗読劇などを行います。 日程 8月13日(木曜) 時間 10時から午後0時30分まで 場所 宮崎市民プラザ 原爆と平和のポスター展  2歳で被ばくし、10年後に白血病で亡くなった佐々木禎子さんの一生が分かる「サダコと折り鶴ポスター」を展示します。宮崎市立図書館の関連図書と合わせて、原爆の被害と平和について考えてみませんか。 提供:広島平和記念資料館 日程 8月5日(水曜)から17日(月曜)まで 場所 宮崎市立図書館 宮崎特攻基地資料展  赤江地区で過去3回開催してきた資料展を、今年は宮崎空港ビルで開催します。当時の様子を伝える写真や資料などを展示します。 日程 7月22日(水曜)から26日(日曜)まで 場所 宮崎空港ビル 黙とうを捧げましょう  右の日時にサイレンを鳴らします。恒久平和の祈念と戦没者・原爆死没者の追悼のため1分間の黙とうを捧げましょう。 ①8月6日(木曜) 8時15分 広島原爆の日 ②8月9日(日曜) 11時2分 長崎原爆の日 ③8月15日(土曜) 正午 終戦の日 ◎宮崎特攻基地慰霊碑、宮崎特攻基地資料展、みやざき市民のつどい…問い合わせ先 福祉総務課 電話21-1754 ◎原爆と平和のポスター展…問い合わせ先 総務法制課 電話21-1721