======================911text0809====================== 特集 1  生誕170年 郷土の偉人・たかき かねひろ TAKAKI KANEHIRO 「ビタミンの父」はスーパーマルチ男爵! 今から170年前、高岡町むかさに生まれた たかき かねひろ。医師や看護師の心構えを説いた「病気を診ずして病人を診よ」の言葉でも知られています。イギリス留学後に東京海軍病院長となった かねひろは、当時難病といわれていた「かっけ」の予防法確立に取り組むなど、日本の医学界に大きく貢献し男爵位も授けられました。 今年、生誕170年を迎える郷土の偉人・たかき かねひろ の生涯と、その功績を学ぶ取り組みを紹介します。 郷土の偉人・たかき かねひろ より一言  現在の  カレーライスの原型を作ったのは、  実は私なのです。 かっけの原因を究明し その予防法に多大な貢献  たかき かねひろ が日本海軍の軍医大監を務めていたとき、かっけは栄養不足によって引き起こされると考え、軍艦乗組員の食事を改善する実験を行います。その改善食の一つが、イギリス海軍が糧食にしていたカレー風味のシチューをヒントに、炒めた小麦粉でとろみをつけて麦飯にかけたもので、現在、一般的に食べられている 「カレーライス」のルーツといわれています。  かねひろの研究は、のちのビタミンの発見につながり、かっけはビタミンB1の欠乏で発症することが証明されます。このことから、たかき かねひろ は「ビタミンの父」と呼ばれるようになったのです。 たかき かねひろ ゆかりの名所・旧跡 たかき家墓所(高岡町) たかき家の墓所が高岡町内の共同墓地にあります。墓石側面に、かねひろが東京に移り住んだと書かれています。 ぼくえんひろば(高岡町) かねひろの生誕地にある公園。むかさ城跡の西側に位置する城郭跡を利用して造られています。 宮崎市あまがじょう歴史民俗資料館(高岡町) あまがじょう跡に建つ、天守風建築の資料館。年に数回、不定期ですが、かねひろにまつわる資料の展示が行われます。 たかき かねひろ の生涯をたどる 世の中の役に立ちたい むかさの地から医学を志す  幼名は とうしろう。8歳からこの地方の学者・なかむら けいすけ のもとで四書五経を学び、10歳になると漢学塾に通いながら、地元の年寄からじげん流の剣術を習い始めます。そして13歳のときに地元の有識者で医師の くろき りょうすけ の影響を受け、医学を志します。その後、師匠のくろきなどの後押しを得て18歳で鹿児島の蘭学医・いしがみ りょうさく に付いて医学の勉強を始めました。 ぼしん戦争に軍医として従軍 西洋医学の必要性を痛感 明治元年に戊辰戦争が勃発すると、会津若松の戦地で負傷者の診療に従事。しかし、外科の技術をほとんど知らず、負傷者が出ても手術は失敗の連続でした。ここで かねひろに大きな影響を与えたのが、負傷者に外科手術を施す西洋医学と、イギリス人医師のウィリアム・ウィリスでした。ウィリス医師の治療で多くの命が救われるのを目にして、西洋医学を学びたいと強く願うようになりました。 これからは西洋医学! 27歳でイギリス留学 抜群の成績で医学校を卒業  ぼしん戦争から戻ると、ウィリスを校長に迎えた鹿児島医学校に入学。英語の素養もあったため、ウィリスの助手なども務め、2年学んだのちに上京し海軍へ。さらにその3年後、念願のイギリス 「セント・トーマス病院医学校」に留学。5年間の在学中に、優秀賞や栄誉賞などを受賞します。この学校には、ナイチンゲールが設立した看護学校も併設され、かねひろの病院づくりに影響を与えました。 略年譜 ※年齢は数え年 1849年 嘉永2年 1歳 旧暦9月15日、むかさ郷士・たかき きすけ の長男として日向国東諸県郡むかさ村白土坂(現在の宮崎市高岡町むかさ)に生まれる。 1854年 安政元年 ペリー再来航、日米和親条約締結 1856年 安政3年 8歳 なかむら けいすけ に付いて四書五経を学ぶ。 1858年 安政5年 10歳 あまん まごべえ に じげん流の剣術を習う。 1858年 安政5年 安政の大獄始まる 1861年 文久元年 13歳 医学を志す。 1866年 慶応2年 18歳 鹿児島に行き、いしがみ りょうさく に付いて医学を学ぶ。 1868年 明治元年 明治維新始まる 1868年 明治元年 から1869年 明治2年 まで ぼしん戦争 1868年 明治元年 20歳 薩摩藩九番隊付き医師として、東北征討軍に従軍。 1870年 明治3年 22歳 鹿児島医学校(薩摩藩立開成学校)で、イギリス人医師ウィリアム・ウィリスに付いて医学と英語を学ぶ。 1872年 明治5年 24歳 4月15日、海軍省九等出仕。6月、とみこ と結婚。 1875年 明治8年 27歳 イギリス留学を命ぜられ、ロンドンのセント・トーマス病院医学校に留学。 1877年 明治10年 西南戦争 1880年 明治13年 32歳 11月、留学を終えて帰国。12月、海軍中医監、東京海軍病院長を命ぜられる。 1881年 明治14年 33歳 5月、東京慈恵会医科大学の前身の成医会講習所を設立。初代所長となる。