===================927text0405=================== 特集1  ねい さぶろう が発給した命のビザ文明開化を経て、近代化を推し進めながら、西洋の国々と肩を並べるべく邁進していた明治時代の日本。その頃、宮崎・佐土原で生誕し、後に外交官となり、命のビザを発給した人物が ねい さぶろう です。  第二次世界大戦中、ナチス政権下のドイツで迫害を受けたユダヤ人難民は、住むところを追われました。そんな彼らにビザを発給し、日本を通過して各国へ亡命する道筋を作ったのが、リトアニアの日本領事館にいた外交官・ すぎはら ちうねです。日本行きの船に乗るため、ユダヤ人難民たちは極東の地、ソビエト連邦・ウラジオストクへ。そのウラジオストク日本総領事館の外交官として任務に当たっていたのが、ねい さぶろう でした。  「ねい さぶろう を顕彰する会」の ねい よく 会長によると、日本の外務省は すぎはら ちうね が発給したビザは容認できないので、ユダヤ人難民のビザを再検閲し、日本入国を厳しく取り締まるようにと ねい さぶろう に指令を出しました。それに対し、ねい さぶろう は、そのようなことをすれば日本国の在外公館が出したビザが、日本国の権威を損なうものだと拒み、「面白からず」という強い言葉で外務省に反論の電報を打ちました。そして、ユダヤ人難民を福井県敦賀港行の船に乗せたのです。  それだけでなく、ねい さぶろう 自身もビザを持っていないユダヤ人難民にビザを発給し、自分の信念に従い、行動しました。ねい さぶろう の信念を持った行動により救われたユダヤ人難民が何人いたのか。今回発見されたビザには「第21号」が記されていますが、数はまだはっきりしません。  このように ねい さぶろう は、 すぎはら ちうね が発給したビザを繋いで、ユダヤ人難民を日本へ渡航させるとともに、ねい さぶろう 自身もビザを発給してユダヤ人難民の命を救ったのです。 「昭和十年」の文字があることから、根井が35歳頃の写真と思われる。 ねい さぶろう を顕彰する会提供 40歳頃の ねい さぶろう。 ねい さぶろう を顕彰する会提供 唯一見つかった「21号」 2020年4月、『命のビザ、遥かなる旅路』(交通新聞社)の著書もあるフリーライター・きたで あきら さんが根井の働きを裏付ける重要な証拠を手に入れ、その知らせが宮崎にも届きました。それは根井自身が発行した「第21号ビザ」。北出さんが調査する中、日本を経由し、米国に渡ったユダヤ系ポーランド人のビザが見つかったのです。研究しつづけた人がいたからこそ、発見に至った貴重な資料です。 きたで あきら 氏提供 ねい さぶろう 年表 年 月/日 年齢(歳) ねい さぶろう に関する出来事 世界、日本の動き 1902年(明治35年) 3月18日 0歳 宮崎県宮崎郡廣瀬村(現・宮崎市佐土原町)に生まれる 1908年(明治41年) 4月 6歳 広瀬尋常高等小学校に入学 1914年(大正3年)第一次世界大戦始まる 1916年(大正5年) 4月 14歳 長崎県立中学玖島学館に入学 1920年(大正9年)国際連盟設立 1921年(大正10年) 3月 長崎県立大村中学校卒業(学校名改称) 4月 19歳 外務省留学生試験に合格 6月 外務省留学生としてハルピンへ留学。 1923年(大正12年)関東大震災 直ちに日露協会学校へ入校(二期生) 1924年(大正13年) 3月 日露協会学校(のちのハルピン学院)を卒業 1925年(大正14年) 4月 23歳 ハルピン日本領事館に勤務 11月 ウラジオストク日本総領事館に勤務 1929年(昭和4年) 3月 通商局第二課に勤務 8月 27歳 ウラジオストク日本総領事館に勤務 1930年(昭和5年) 9月 28歳 会計課に勤務 1932年(昭和7年) 1月 29歳 欧米局第二課に勤務 1932年(昭和7年)満州国建国 9月 30歳 ウラジオストク日本総領事館に勤務 1933年(昭和8年) 12月 31歳 ソビエト連邦勤務 1933年(昭和8年)ヒトラー政権誕生 ドイツと日本が国連脱退 1935年(昭和10年) 4月 33歳 大臣官房電信課に勤務 1936年(昭和11年) 7月 34歳 イラン国に勤務 1938年(昭和13年)ユダヤ難民の日本入国を禁止 1939年(昭和14年)第二次世界大戦始まる 1940年(昭和15年) 4月 38歳 欧亜局第一課に勤務 1939から40年(昭和15年)ユダヤ難民の日本通過への審査強化、'40日独伊三国同盟締結 ※7から9月 すぎはら ちうね がユダヤ難民にビザ発給 8月 ウラジオストク日本総領事館への勤務を命ぜられる 12月 総領事代理(副領事)となる 1941年(昭和16年)太平洋戦争始まる 1941年(昭和16年) 39歳 1月8日 ウラジオストク着任 2月8日から6月2日 同地のユダヤ難民について本省(外務省)と電文のやり取り 3月30日 国の命令に対しユダヤ難民などの日本渡航を認めるよう「面白からず」と異を唱える。 杉原発給のビザの有効性を訴えつつ、認められていなかったビザの独自発給を行う。 8月 8月17日から9月13日 一時帰国 1944年(昭和19年) 11月 42歳 ソビエト連邦勤務 1945年(昭和20年) 1月 42歳 日本帰国、8月 日本で終戦を迎える 1945年(昭和20年)第二次世界大戦終結 終戦翌年に外交官を退職し、大蔵事務官を経て、入国管理庁外務技官に。鹿児島、名古屋の入国管理事務所所長を歴任。 1992年(平成4年) 3月31日 90歳 永眠 コメント 私が「命のビザ」関連の調査でアメリカを訪れたのが2010年9月。その10年後の昨年4月に、それまで発見されていなかった ねい さぶろう さん発給のビザの存在が判明しました。その確認の役割を私が果たすことになったのも何かのご縁かもしれません。これまでは、『命のビザ』と言うと すぎはら ちうね さんの「専売特許」のように扱われていた傾向がありますが、今後は根井さんの功績にも光が当てられるようになることを願っています。 きたで あきら さん(フリーライター) 晩年は東京・久我山で暮らした根井。写真は井の頭公園での一枚。 第二次大戦中にユダヤ難民がたどった逃避経路 ===================927text0607=================== 偶然の「出会い」から…… 顕彰会の活動と役割  長らく故郷、佐土原でも ねい さぶろう の功績を知る者はいませんでした。その名前が聞かれたのは、 すぎはら ちうね などを研究する福井県敦賀市の元職員、古江孝治さんからの問い合わせ。佐土原に多い名前だと知った古江さんが佐土原総合支所に連絡し、同じ苗字だという理由で現在「ねい さぶろう を顕彰する会」(以下、顕彰会)の会長を務める ねい よく さんに話が来たのです。知らないという返事をしたものの、その後根井の行いを知り、翌年の2016(平成28)年には顕彰する会を発足しました。  それから根井会長を中心に、東京の外務省外交史料館や ねい さぶろう が晩年暮らした東京・杉並区久我山を訪ねたり、ねい さぶろう の子孫に会いに行ったり、彼の人となりを明らかにしようとその足跡をたどりました。ねい さぶろう が広瀬小学校に在籍していたことを突き止めたのも顕彰会の手によるものです。  「政府の方針に逆らってまでビザを発給し、ユダヤ人難民が日本に渡航することを認めたのは、苦悩の末のことだったのでは。自分が全部背負う覚悟をしてまで、国の威信を守ろうとしたのではないか」と会長は話します。  外交官であったことさえ子孫は知らず、ましてやビザ発給についてはその後誰にも語ることはなかった ねい さぶろう 。  彼は生涯、故郷を忘れることはなく、自宅近くの井の頭公園の池に行っては「佐土原に似ている」と話し、佐土原に墓を作っていたこともわかりました。  根井会長は「私たちが活動することで、反響があればと思っている。佐土原だけでなく、宮崎市、宮崎県全体に広く ねい さぶろう を知ってもらうことで、アクションがあり、新たな事実がわかることを期待している」と言います。  気骨のある外交官、 ねい さぶろう の存在を今後も後世に残すべく活動する顕彰会の役割は決して小さくありません。 自ら出向いて ねい さぶろう の足跡を調べる ねい よく 会長。かつては小学校で教鞭をとり、校長も務めた。 昨年、顕彰会は根井の業績の掘り起こしや、講演会などの顕彰活動が認められ、宮崎日日新聞賞 国際交流賞を受賞した。写真は授賞式の様子(前列左が根井会長)。 顕彰会とテレビ宮崎(UMK)との共同取材で、根井発給のビザによって渡米することができたシモン・コエンタイエルさんの孫2人とオンラインで対話も。彼女たちは、もしもビザがなかったら、私たちはこの世に生まれなかったと感謝を述べていた。 「諸国民の中の正義の人」認定への働きかけも イスラエル政府がユダヤ人を救った人に贈る「ヤド・バシェム賞」。「諸国民の中の正義の人」として51か国27712人が、日本人では すぎはら ちうね が受賞しています。旧ソ連に生まれ、米国籍を取得し、現在国士舘大学で教鞭をとるジンベルク・ヤコブ教授は、 すぎはら ちうね などの研究をする中、 ねい さぶろう も同賞受賞の条件を満たしているとして、イスラエル政府への申請を行っています。認められれば、日本で2人目となります。 コメント ねい さぶろう 氏が、ソビエト連邦経由で日本に向かったユダヤ系難民に救いの手を貸したことは驚嘆に値するものであり、ユダヤ民族にとって忘れがたいものとなりました。ウラジオストクにおける ねい さぶろう の活動によってホロコーストから逃れ救済された人々についての記憶を語り継ぐ気高い事業が、これからも末永くつづきますことを、心から願っております。 ジンベルク・ヤコブさん(国士舘大学 21世紀アジア学部 教授) 「出前授業」で地元・広瀬中学校の生徒たちは…… 顕彰会では、 ねい さぶろう の功績をまずは地元の佐土原で知ってもらおうと出前授業を行っています。広瀬中3年の皆さんの感想をご紹介します。 佐土原出身を誇りに思う  自分が生まれ育った佐土原にこんな素敵な人がいるとは思いませんでした。改めて、差別とかは絶対にしてはいけないし、 ねい さぶろう さんと同じ佐土原町の出身でとても誇りに思えます。 ねい さぶろう さんの知名度は すぎはら ちうね や小村寿太郎よりも低いと聞き、驚きました。もっと多くの人や宮崎県の人に知ってほしいと思いました。 ながの あゆみ さん 根井さんはかっこいい  もともと ねい さぶろう さんは知っていましたが、改めてかっこいいなと思いました。人として正しい行動をし、何人もの人を助けた根井さん。いろいろな人に知ってもらうために、まずは友達や家族に話をし、後世に継がれていくといいなと思いました。今回の講演は勉強になることだらけでした。私も根井さんのようになりたいです。 きじま あいこ さん 意志を貫く人になりたい  ねい さぶろう はたくさんのユダヤ人を救ったのに、その行いについてほとんど知られないまま亡くなったのは、少し悲しいことだと思った。でも、そんな ねい さぶろう の素晴らしい行いを私たちが忘れずに、これからを生きる人々に伝えていきたいと思う。上からの圧力にも屈せず、自分の意志を貫いた ねい さぶろう のように、私たちも自分の気持ちを曲げずに生きたい。 まつき ななみ さん 人種は違っても同じ人間  一人でも多くの人の命を救おうとする気持ちがとても伝わりました。人が笑顔になる、人の役に立つ、こういうことを僕は今後やっていきたいなと思いました。ここ最近差別などのニュースがありますが、絶対にやってはいけないことです。みんな人種は違っても同じ人間なので、その気持ちを大切にしていきたいです。 ふるみち はると さん 戦時中を外交官として生きた根井の講演を、真剣に聞く広瀬中の生徒たち。 10 人や国の不平等をなくそう 宮崎にゆかりのある偉大な先人に不平等のない社会の尊さを学ぶ 終戦から75年が経ちましたが、いまだ人や国の不平等は世界中で見られ、差別意識から生まれる分断は深まっているようにさえ見えます。 ねい さぶろう が発給した「命のビザ」のストーリーを知ることで、年齢、性別、障がい、人種、民族、出自、宗教、あるいは経済的地位その他の状況に関わりなく、お互いが支え合える宮崎市を作っていきましょう。 広瀬小学校に展示されている顕彰会が贈った根井の等身大パネル。 持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals = エスディージーズ)とは、2015年9月の国連サミットで採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」にて記載された2016年から2030年までの国際目標です。宮崎市は持続可能な開発目標(エスディージーズ)を支援しています 問い合わせ先 佐土原総合支所 地域市民福祉課 電話73-1111 ファックス番号73-4279