特集2  いなづかもんのすけ物語 もう一つの関ヶ原 プロフィール いなづかもんのすけ 若くして飫肥藩初代藩主・伊東すけたけに才能を見出され、25歳で家老に抜てき。豊臣秀吉の朝鮮出兵にも参陣しました。  ときは戦国時代。日向の覇権を争った伊東氏と島津氏の戦いで、7か月にわたって大勢力である島津氏と互角に渡り合った、ゆうもうかかんな一人の武将がいました。きよたけ城主いなづかもんのすけ(以下、かもんのすけ)その人です。彼がたどった、数奇な生涯を追いました。 黒田じょすいのアドバイスで伊東すけたけが東軍に寝返る!  かもんのすけが仕えていた飫肥藩主・伊東すけたけは、関ヶ原の戦いで西軍につきました。しかし、重病を患っていたすけたけは出陣せず、「帰国して西軍を攻めるべし」との黒田じょすいの勧めで東軍に寝返ります。25歳の若さで家老となっていたかもんのすけに、宮崎城攻めを命じました。 伊東すけたけ 初代飫肥藩主。豊臣秀吉の九州攻めを先導した功績が認められ、かつての領地飫肥を取り戻して初代飫肥藩主となりました。 黒田じょすい(官兵衛) 豊臣秀吉の参謀として名高い名将。関ヶ原の戦い時は拠点を置いていた九州で勢力を拡大。天下を狙おうとしたという説もあります。 ~関ヶ原の戦い主な勢力図~ 西軍 石田三成 小西行長 大谷吉継 島津義弘など 以下3人が東軍に寝返る! 伊東すけたけ(飫肥) 高橋もとたね(延岡) 秋月種長(高鍋) 東軍 徳川家康 黒田長政 福島正則 細川忠興など 徳川への忠誠を誓って宮崎城をだっかん  宮崎城には、西軍についていた延岡藩主・高橋もとたねの家臣、ごんどうたねもりがいました。たねもりは延岡に援軍を要請しますが、延岡はこれを拒否。ろうじょうを余儀なくされたたねもりをかもんのすけは破り、宮崎城を落としました。 宮崎城は、現在の池内町にあった山城。現在は地元の人により案内板が立てられています。 ごんどうたねもり 高橋もとたねに長年使えた老臣。関ヶ原への出兵で余裕がなかった延岡藩から援軍を得られず、たねもり軍は2人の息子とともに全滅しました。 宮崎城を手に入れたかもんのすけ 島津氏と激突!  宮崎城を奪い返したかもんのすけは、古城や細江などに陣を構えます。対する島津も、あまがつじ(現在のあまがじょう)に新たに城を築くなどして対抗。かもんのすけはかつて伊東氏の城だったさどわら城をだっかんしようと、島津氏と激しく交戦しました。兵力は圧倒的に島津氏が上回っていたにもかかわらず、かもんのすけは家来たちの奮闘もあって、互角に渡り合いました。 びたびたばし:現在の日章学園付近)では、島津の追撃を受けた伊東勢の6人の武将が果敢に反撃。飫肥で「びたびたばしの六本槍」と称えられたそうです。 戦いの末、島津氏と伊東氏は、船引神社(現在のきよたけ町)で和解。宮崎城を落とし、さらにさどわらや高岡などを攻め続けたかもんのすけの武勇は、広く知れ渡りました。 矢野かんせい 武勇に長けたとされるかもんのすけの家来。島津勢の総攻撃もかんせいが瓜生野で迎え撃ち、撃破。逆にむかさに追い詰め、島津勢を苦しめました。 宮崎城は高橋氏に返還 かもんのすけにまさかの…!  戦いを経て和解した伊東氏と島津氏でしたが、実はかもんのすけが宮崎城を攻め落とした時点で高橋氏は東軍に寝返っていました。すけたけの息子・すけのりが徳川家康の命に応じて宮崎城を高橋氏に返還する際、すけのりはかもんのすけに宮崎城を攻めた責任を取るよう命じます。若くして家老に就くなど活躍していたかもんのすけを、かねてからかもんのすけと仲が悪かったとされるすけたけの妻・しょうじゅいんがねたみ、すけのりと仕組んだことといわれています。切腹を命じられたかもんのすけはきよたけ城にろうじょうして抵抗しますが、最後は自害。29年の早すぎる生涯を終えました。 伊東すけのり 関ヶ原の戦いの年に病死した父・すけたけの跡を継ぎ、2代藩主に。島津氏との領地争いの際は、有利な解決を導くなど、手腕を発揮しました。 むかさ城は動乱の舞台だった!?  南北朝時代はあしかがたかうじの所領、戦国時代は伊東氏と島津氏の争いの舞台でもあった有名な山城(天守はなく、山を切り盛りして築いた城のこと)です。遺構が良好な状態で残っており、古銭や陶器、鉄砲玉などが出土しています。 むかさ城跡。県内でも最も古い時期からある山城です。 かもんのすけを支えた知将はあの人のご先祖様!?  かもんのすけが島津勢と互角に戦えたのは、地勢や敵の心理を知り、敵側に情報提供者を作るなど、知略に長けたやすいそうえもんがいたからといわれています。名字でピンと来る人もいる通り、そうえもんは儒学者・やすい息軒の9代前の先祖です。 さどわら城には天守があった!?  さどわら城の本丸跡では、天守台(城の中の中心的なやぐらを支える石組み)やしゃちほこが発見され、南九州で唯一天守を持つ城だったことが分かっています。しゃちほこの表面には、かすかに金箔が残っています。 さどわら城跡。江戸時代は城下町として栄えました。 かもんのすけの妻・雪江は夫を思い引き返した!?  伊東すけのりに切腹を命じられたかもんのすけは妻・雪江の身を案じ、飫肥に帰るよう伝えます。城を出て帰途に就いた雪江でしたが、夫を案じ、城に戻って一緒に自害したそうです。このとき、雪江はまだ15歳だったとも言われています。 きよたけ城跡には、かもんのすけと雪江の墓が残されています。 かもんのすけマメ知識  悲運の最期を遂げたかもんのすけ。元はこしょう(身分の高い人に仕える少年のこと)としてすけたけに仕えたといわれています。25歳で家老になり、きよたけ城主を務めたのですから、優れた人物だったことは明らかでしょう。  しかし、かもんのすけについて書かれた書物のほとんどは、敵である島津氏や、すべての責任を負わせた伊東氏によって書かれたもので、悪者として描かれているケースが大半です。かもんのすけの側から書き残された書物が存在しないことこそが、かもんのすけの本当の悲劇とも言えます。 山城は戦国ドラマの舞台です! 文化財課主査 竹中克繁 問い合わせ先 文化財課 電話︎21-1836、ファックス番号21-1840