国指定史跡

11.生目古墳群

(国指定史跡)

生目古墳群

所在地:跡江字井尻ほか
指定:昭和18年9月8日

平成19年2月6日

生目古墳群は、宮崎市のほぼ中央部に位置し、古墳群北側には日向灘に注ぐ大淀川が流れています。古墳群の主体を成す部分は標高25m前後の丘陵上(跡江丘陵)に立地し、丘陵上からは東に宮崎平野を一望することができ、晴れた日には西方向に鹿児島県境に聳える霧島連山までも確認することができます。

古墳群は前方後円墳7基と円墳44基の合計51基が指定を受けています。その中でも古墳時代前期の100mを越す前方後円墳3基(1号、3号、22号)は、同時期の南九州の首長墓群の中でも突出した存在であり、南九州地方の盟主の存在を想起させます。前方後円墳はこの他4基あり、その築造は5世紀後半まで続きます。

また、生目古墳群の前方後円墳には地下式横穴墓が伴うことも解ってきました。この発見は南九州の古墳時代の墓制を再検討させるだけでなく、今後、当時のヤマト政権と南九州の首長との関係を垣間見ることのできる事例となることでしょう。

12.蓮ヶ池横穴群

(国指定史跡)

蓮ヶ池横穴群の写真

所在地:芳士字岩永迫
指定:昭和46年7月17日

これまでに82基の横穴が発見されており稲荷池の東側丘地、御諏訪池の西側丘地、東側丘地の3集団に分けることができます。このことは、壮大な高塚墳のような権力者(豪族)の墓から、家族墓としての性格をもつものに移行したことを示しています。

これらの横穴は古墳時代後期のもので、6~7世紀に造られたものと思われます。13号横穴は副葬品などを復元し、横穴の内部の様子がわかるよう公開されています。

平成4年には、みやざき歴史文化館を中核施設とする「蓮ヶ池史跡公園」として整備が完了し、郷土の歴史や文化を楽しみながら学べる場として、また、リクレーションや憩いの場として市民に親しまれています。

13.佐土原城跡

(国指定史跡)

佐土原城跡

所在地:佐土原町上田島追手ほか
指定:平成16年9月30日

佐土原城跡の特徴は、中世から近世の長期間にわたり地域統治の拠点となったことです。山上の山城部と山下の平城部から成り、山城部は中世に多くの防御施設が作られた一方で、平城部は近世における藩政の象徴として屋敷が立ち並んでいました。田島伊東氏の築造にはじまる城跡は、自然の地形を利用した中世の典型的な山城で伊東義祐の頃、難攻不落の城として整備され、日向国48城支配の要となりました。近年の調査によって南九州では例を見ない天守台を備え、金箔瓦を使っていたことがわかり重要さが再認識されています。

14.本野原遺跡

(国指定史跡)

本野原遺跡

所在地:田野町字本野原
指定:平成16年9月30日

本野原遺跡は、鰐塚山地の北麓の台地上に形成された遺跡の一つです。平成13年度に行った発掘調査により、縄文時代後期を中心とした大規模な集落遺跡であることがわかり、平成16年度には遺跡の大半が国史跡に指定されました。

本野原遺跡の最大の特徴は、集落の中心を大規模に掘り窪めていたことです。このような「窪地」をもつ縄文集落は、西日本で初めての発見でした。「窪地」の最大直径は約100mあり、縄文時代の「土木工事」といえるでしょう。この窪地は、縄文時代後期の初めごろから中ごろまで掘り続けられ、窪地を中心とした集落は後期が終わるまでの約1,000年間続きました。窪地の中には、掘立柱建物・環状に分布する貯蔵や埋葬のために掘られた大小さまざまな穴・お祭りに使ったと思われる皿状の凹みや石を配した空間などが見つかり、窪地の外からは100軒を超える竪穴住居のほか、大型の掘立柱建物・道の跡・土器などを捨てた場所などが見つかりました。

15.穆佐城跡

(国指定史跡)

穆佐城跡空撮穆佐城跡イメージ

所在地:高岡町小山田918番地ほか
指定:平成14年3月19日
         平成29年10月13日

穆佐城跡は、穆佐院高城ともよばれ、三股院高城(都城市)、新納院高城(木城町)とともに日向三高城として知られた、たいへん有名な中世の山城です。今でも大規模な城の全容が良好な状態で保存されています。標高約60mの丘陵上に造られた全長600mの山城で、大規模な堀切によって大きく4つの地区(曲輪群)に分かれています。防御性を発揮しやすい台地に立地し、大きな堀切で区切った独立性の高い曲輪群を並列させる造り方は、南九州地方の山城の特徴でもあります。

また、穆佐城は、古くは穆佐院政所があったとされ、南北朝時代は日向国守護の城であり、また南九州における南朝方と北朝方の戦いの場にもなりました。応永10(1403)年には、島津8代当主島津久豊が穆佐城に入り、同じ年、忠国が城内に生まれています。その後、文安2年(1445)に伊東祐堯の領地となりますが、天正5年(1577)、伊東氏の豊後没落後は、再び島津氏の領地となりました。

16.安井息軒旧宅

(国指定史跡)

安井息軒旧宅

所在地:清武町加納(字中ノ尾)甲3368番地1
指定:昭和54年5月22日

安井息軒は、寛政11年(1799)、清武町上中野に父滄洲の次男として生まれ、大坂の篠崎小竹、江戸の昌平坂学問所に学んだ後、故郷中野の郷校明教堂の創設に尽力し、飫肥城下に藩校振徳堂が創立されると、一家をあげて飫肥に移り住み、助教として活躍しました。天保9年(1838)、さらなる学問の高みを目指し江戸に移住すると、私塾三計塾を開き、全国から彼の門をたたいた数多くの俊才たちに教育を施しました。

この建物は、息軒が、生誕から文政3年(1820)に大坂の篠崎小竹の塾に入門するまでの22年間、そして郷校明教堂設立期の4年間など合わせて約28年間を過ごした邸宅です。飫肥移住後、この旧宅は他人の手に渡り、大正10年(1921)には主屋が新町へ移築されましたが、その後息軒顕彰の気運が高まり、昭和4年(1929)に建物が再び敷地内へ里帰りし、公園として整備されました。

昭和54年(1979)に国史跡に指定。その後、平成2年度の発掘調査を経て、平成4~5年度の2か年で保存修理工事を行い、建築当初の姿に復元されました。

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