県指定有形文化財

27.木造阿弥陀如来坐像一躯

(県指定 有形文化財)

木造阿弥陀如来坐像一躯の写真

所在地:神宮2丁目(県総合博物館)
指定:昭和40年8月17日

この阿弥陀像は、宮崎市老松通の観音堂に祀られていたものです。

像 高50.2センチを測り、ヒノキ材、寄木造、漆箔、定印の坐像です。頭部には細目の螺髪を刻み、右足を外にして趺坐しています。肉髻珠、自亳は今日亡失し ていますが、螺髪は細かく整い面相にも穏やかな彫り口の目鼻立ちを刻み、その肉どりも温雅で、藤原時代末期の如来像の一典型を示すものです。

衲衣の衣褶の彫り方や、右足先の下方に、衲衣の衣端の重なったさまを彫り出すなど、独自の意匠をつくる刀法も巧みで、都仏師の手になるものと思われます。小品ながら、典雅な作風のもので、県下では注目される作例です。

28.米良の民家 旧黒木幸見家住宅

(県指定 有形文化財)

米良の民家 旧黒木幸見家住宅の写真

所在地:神宮2丁目(県総合博物館屋外)
指定:昭和52年4月1日

この民家は、児湯郡西米良村竹原(この地は一ツ瀬川沿いに開けた西米良村の典型的な集落である。)に建っていたもので、米良型の典型的な農家です。本屋と馬屋の2棟を県総合博物館屋外施設内に移転、復元しています。

本屋は、デイ(客間)、ウチネ(居間)、カマド、ドマと梁行方向に部屋をとっており、文政年間(1818~1830)の建築といわれています。家の造り・景観ともに良く、古民家として高い価値があります。

29.椎葉の民家 旧清田司家住宅

(県指定 有形文化財)

椎葉の民家 旧清田司家住宅の写真

所在地:神宮2丁目(県総合博物館屋外)
指定:昭和52年4月1日

この民家は、梁行方向のみ間仕切りを設け、部屋割りをするのを原則とする型式のものです。型式・手法から慶応(1865~1868)頃の建築とみられますが、当家にはそれより約40年後の明治37年(1904)の普請帳が現存しています。

内容は、工事に稼働した人名及び人工数・その支払い内訳・材料の調達方法などで、屋根の葺替えを主とし、一部石垣の積上げを伴った工事であったことがわかります。また支払いは現金ではなく、稗・麦・豆・唐黍・豆腐などの食料の現物で、しかも返済は3、4年がかりの長期にわたったものでした。

このように年代は新しいながらも、当時の建築経済の一端を物語る貴重な資料です。

30.土持文書

(県指定 有形文化財)

土持文書の写真

所在地:神宮2丁目(県総合博物館)
指定:昭和58年1月21日

土持文書は、高岡町の清水家に代々伝えられてきた中世の古文書で、明治20年(1887)東京大学の調査以来今日まで中世日向の歴史を知る上で、最も貴重な文書の一つとして評価を受けている。

土持氏は、中世日向における代表的豪族で、在庁官人、郡司、地頭などを一族で占め、南北朝争乱時に武家方として活躍しました。

この文書は、土持七党の一つ清水家相伝の文書で、系図1冊を含めて計30冊、鎌倉末期の1点以外の大部分は南北朝時代の日向武家方の土持一族に対する軍忠状・感状・挙状・安堵状・下文・補任状・覚書などです。

土持文書目録

  • 日向在国司所職注文 文保二年六月五日
  • 畠山直顕地頭職補任状 建武四年五月二十日
  • 足利直義感状 建武四年八月六日
  • 畠山直顕挙状 建武四年九月十一日
  • 足利直義感状 建武五年七月十一日
  • 畠山直顕挙状 暦応二年正月二十二日
  • 足利直義感状 暦応二年十二月十三日
  • 宇佐大宮司宮成公右下文 暦応四年十月十九日
  • 若林秀信挙状 康永三年三月三日
  • 某袖判宛行下文 貞和四年八月九日
  • 足利直冬感状 観応三年三月十四日
  • 一色範光軍勢催促状 文和三年三月五日
  • 讃岐守源某安堵状 延文三年三月五日
  • 守譲所某感状 建武五年二月五日
  • 一色範親感状 延文六年六月こ十九日
  • 一色範親感状 延文六年十月九日
  • 斯波氏経軍勢催促状 康安元年十一月六日
  • 一色範親感状 康安二年九月二日
  • 一色範親軍勢催促状 貞治三年卯月二日
  • 足利義詮軍勢催促状写 貞治四年七月十一日
  • 今川満範感状 康暦元年十月七日
  • 今川満範書状 (年末詳)九月二十七日
  • 沙弥刑部某書状 (年末詳)七月二十五日
  • 一色道猷氏書状 (年末詳)一月十九日
  • 畠山直顕挙状 (年末詳)九月十八日
  • 野別符坪付 (年月日未詳)
  • 土持七頭書付 (年月日未詳)
  • 土持七頭書付 (年月日未詳)
  • 土持氏所持文書書上 (年月日未詳)
  • 田部姓土持氏系図 (年月日未詳)

31.妙円寺跡石塔群

(県指定 有形文化財)

妙円寺跡石塔群の写真

所在地:大字浮田字中間439番地・440番地
指定:平成15年10月16日

中世の城郭高蝉城跡の東麓、千仏山本勝寺境内の西側丘陵東斜面に階段状に配置される妙円寺跡石塔群は、南北朝時代末期以降の紀年銘をもつ五輪塔・板碑など、1,237基が一か所にまとまって造立されており、その規模の大きさは県内はもとより、九州地域内にも類をみません。また、門流系図、伊東略系図、長友系図上の人物名を銘文に記す石造物の存在が確認され、地方史はもちろん、宗教史との関連も明らかになり、広い意味での歴史的価値を有します。

これらの石造物は昭和11年に藤元智明住持によって発掘され、現在の配置に改設されており、その内訳は、五輪塔681基、板碑546基、そのほか墓石、記念碑等10基で、最も古いものは、板碑で貞治2年(1363)、五輪塔では至徳2年(1385)で、約75%が室町時代のものです。

また、銘文の確認されているものの中において、伊東氏敗退、豊臣秀吉の九州統一期(1577~1587)から約100年間には石塔の造立はみられず、空白期となっていることも注目されます。

32.金剛寺文書

(県指定 有形文化財)

金剛寺文書の写真

所在地:大字芳士2258番地3(旧みやざき歴史文化館寄託)
指定:平成18年3月23日

この文書が保存されていた八正山金剛寺(臨済宗妙心寺派)は、建武3年(1336)祚廣天沢の開山と伝えられます。宝暦13年(1763)火災で堂塔を焼失し、明治4年(1871)には、廃仏毀釈により廃寺となりましたが、明治42年、大光寺52代月山宗訓和尚により再興され、現在に至っています。

原文書3件は、金剛寺建立当時の中世文書(主に寄進状)として貴重なものであり、他の写文書についても、原文書が確認されない現在においては、当時の金剛寺の有り様を証明する古文書として重要です。

宮崎平野、特に宮崎市北西部地域の中世史を知るための史料は極めて少ないため、この原文書は研究資料として一級史料であり、また、他の写文書についても書写来歴不明ではありますが、重要史料として価値は高いものです。

金剛寺文書目録

  • 某袖判散位邦成奉宛行状 正慶元年十一月十八日
  • 土持本光寺地寄進状 貞和五年正月十八日
  • 土持長栄田地寄進状 應永十一年三月十五日
  • 某袖判散位邦成奉宛行状写 正慶元年十一月十日
  • 某袖判散位邦成奉寄進状写 建武三年十一月廿五日
  • 土持本光寺地寄進状写 貞和五年正月十八日
  • 土持本光寄進状写 暦応二年五月十五日
  • 土持本光屋敷田地寄進状写 建武三年十月七日
  • 木脇祐為屋敷田地寄進状写 貞和四年九月十八日
  • 金剛寺田畠等注文写 建武四年二月七日

33.銅鰐口

(県指定 有形文化財)

所在地:神宮2丁目 (県総合博物館)
指定:平成30年9月10日

34.木造地蔵菩薩半跏像(一躯)

(県指定 有形文化財)

木造地蔵菩薩半跏像

所在地:佐土原町上田島767番地 (大光寺)
指定:昭和40年8月17日

この地蔵菩薩像は、同寺所蔵の文殊菩薩を造立したとき、康俊あるいはその弟子の手になったものであろうといわれています。ヒノキ材の寄木造りで布張り錆び下地に彩色され、玉眼をいれ両耳をうがっています。頬に近づけた指の動き、きれ長の細い目、丸みをおびた面相の地蔵菩薩像です。

35.巨田神社摂社若宮社・今宮社

(県指定 有形文化財)

巨田神社摂社

所在地:佐土原町上田島10732番地1(巨田神社)
指定:昭和58年1月21日

巨田神社本殿の左右に摂社の若宮社と今宮社があります。一間社流見世棚造りでとち葺きの屋根です。本殿と同様に棟札が残り本殿と同時期の建築であると考えられます。

36.五輪塔

(県指定 有形文化財)

(黒坂)五輪塔

所在地:清武町木原6329番地1
指定:昭和41年7月17日

この五輪塔は、元は長徳山勢田寺の境内地にありましたが、明治初めの廃仏毀釈に際して現在の場所に移されたものです。
現在残っている中で、水輪・地輪は原形のままですが、火輪・風輪・空輪は別物と考えられています。水輪には、弘安8年(1285)の刻銘があり、鎌倉時代の五輪塔として貴重な文化財と言えます。

37.旧二見家住宅

(県指定 有形文化財)

二見家住宅の写真

所在地:高岡町内山3627番地
指定:平成30年2月26日

去川関所御定番二見家屋敷の屋敷は、薩摩街道に面した小高い場所に位置しています。
住宅は、旧薩摩藩内特有の座敷棟・居住棟を「テノマ」で繋ぐ分棟型建物です。平成17年度~20年度にかけての解体復元修理によって増改築などの歴史が明らかになりました。座敷棟は安政2年(1855)、居住棟は明治28年に建設、大正3年に西大下屋の修理、昭和11年に茅葺を瓦葺きとし、昭和41年に屋根瓦の部分修理と瓦漆喰を施していました。昭和43年には座敷棟の東裏便所と座敷・次の間に回り縁を設け、居住棟は室内便所・風呂場等を敷設していました。
二見家は、「高岡郷士系譜」によれば禄高77石とあり、年賀の折には藩主に御目見えするなど、格式の高い家として高岡郷でも重きをなしてきました。

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