市指定史跡
119.城ヶ崎俳人墓碑並びに板碑群
(市指定 史跡)
所在地:恒久3丁目20番地13
指定:昭和47年3月10日
この地は、江戸時代から明治時代初期にかけて俳句を中心とした町民文化が栄えたところであり、多くの俳人を輩出し、「城ヶ崎俳壇」と呼ばれました。そして、本県の各地に俳句結社をつくり、作品の添削・指導を行うなど、町人への俳諧・文事を盛り立てた功績は大きく、今日なおこうした俳人たちの墓碑25基及び石経塚3基が集合していることは稀です。
また、墓地内には数基の板碑があり、中でも重要な板碑は、ア字板碑と阿弥陀三尊の種子(梵字)のある板碑で、これらの板碑は隆額板碑と呼ばれ九州に多く分布しています。ア字の板碑には嘉暦3年(1328)の碑文があり、阿弥陀三尊板碑の紀年銘については正和3年(1314)とも判読できるようで、そうなると、宮崎市内はもちろん、宮崎県内においても古式の板碑になると思われます。
120.広原横穴第1号(線刻壁画)
(市指定 史跡)
所在地:広原字菅牟田7594番地
指定:昭和57年2月12日
宮崎市広原7595番地イ号には、県の史跡の指定(昭和19年12月15日)を受けている横穴7基があります。この広原横穴第1号は、これらの横穴に隣接する場所で新たに発見された未指定の横穴でした。
玄室は、主軸の長さ250センチ、幅205センチで横断面はドーム状を呈しています。
この横穴の玄室の側壁には、線刻による壁画が描かれています。壁画は東側壁に9体の人物像(像高25~30センチ)が主体に描かれ、西側壁に2体の人物像その他が描かれています。
こうした線刻による壁画を有する横穴は、極めて稀であり、また、線刻画の構成にも葬列を推測させるような特異性が見受けられ、死後の儀礼に関して様々な研究課題が呈示されています。
121.小村薬師堂石塔群
(市指定 史跡)
所在地:生目字一丁田3100番地
生目字一丁田3094番地丙 (小村薬師堂)
指定:昭和63年8月25日
市街地の西部に位置する生目神社から、南西方向に入り込む谷間の奥、小村地区の丘陵中腹に薬師堂があり、その境内及び南側山林中には、県内でも稀な六面石幢や五輪塔、層塔等106基が群在しています。
中でも寛喜4年(1232)の銘をもつ「翁丸塔」は、全国的にも研究者が注目する古石塔の一つであり、また、笠部に元久元年(1204)の銘をもつ石造層塔のほか、一か所にまとまって造立されていることでは他に類例をみない石幢群があります。
この石塔群は、石造美術史や仏教考古学、仏教民俗学、さらに日本宗教史上の地域性の究明に重要な資料となるものです。
122.島津家久・豊久公墓二基
(市指定 史跡)
所在地:佐土原町上田島西野久尾(天昌寺跡)
指定:昭和54年4月1日
島津家久は、天正7年(1579)に佐土原城主となり天正15年急病で41歳死去します。その子豊久が跡を継ぎますが、関ヶ原の戦いで、叔父島津義弘の身代わりとして敵中に突入し31歳の若さで戦死しました。豊久の遺臣一同は佐土原を引き上げ鹿児島の永吉に帰りました。家久・豊久親子の領主期間はわずか20余年でした。天昌寺跡には、家久・豊久のほか、家久の母・妻、関ヶ原の戦いで命を落とした家臣たちもまつられています。
123.佐土原藩島津家御廟所(高月院)
(市指定 史跡)
所在地:佐土原町上田島8079番地 (高月院境内)
指定:平成16年8月20日
高月院は、慶長17年(1612)に初代佐土原藩主島津以久の3回忌に二代藩主忠興が建立しました。以来藩主の菩提寺として保護を受け、藩主及び奥方と側室の墓石が並んでします。
124.佐土原藩島津家御廟所(大光寺)
(市指定 史跡)
所在地:佐土原町上田島767番地(大光寺境内)
指定:平成16年8月20日
佐土原藩の五代藩主惟久と六代藩主忠雅とその側室の墓が大光寺境内にあります。
125.野田泉光院の墓
(市指定 史跡)
所在地:佐土原町上田島757番地3
指定:平成17年10月26日
野田泉光は安宮寺の住職でしたが、文化8年(1811)56歳の時隠居して全国の山伏寺の状況を視察することを目的に、九峰(英彦山・石鎚山・箕生山・金剛山・大峰山・熊野山・富士山・羽黒山・湯殿山)を登る九峰修行を6年2ヶ月にわたり行いました。旅した記録を日記として残し、それは当時の社会や全国の民俗風習を知る上で貴重な資料となっています。
126.仏堂園群像仏
(市指定 史跡)
所在地:田野町甲9730番地
指定:平成15年6月10日
霊場を巡拝するわが国の宗教習俗には、観音信仰に基づく札所巡礼と、四国八十八ヶ所の弘法大師の霊場を巡拝して、祈願の礼を納める遍路が有名です。
土地に信仰心の厚い有力な人物が出ると、四国八十八ヵ所を模して、八十八念仏を石工に彫らせています。
仏像園地区の薬師堂には、これらの仏像を一ヵ所にまとめて安置した群像仏があり、発願者施主は、仏像園の桜木嘉平氏です。
127.龍福寺仁王尊
(市指定 史跡)
所在地:高岡町内山顕本瀬
指定:昭和54年1月24日
第16代島津藩主義久は、薩摩、大隅、日向3州の菩提寺を考え、自分の名前の一字『龍』をとって寺号とし、それぞれ、薩摩出水郷に龍光寺、大隅国分郷に龍昌寺、日向高岡郷に龍福寺を創建しました。(義久は、龍伯ともよばれていました。)龍福寺は、鹿児島の福昌寺の末寺で、山号を『高岳山』、寺号を『龍福寺』と称し、慶長5年(1600年)に創建されました。
現在の龍福寺墓園は、日向高岡郷の菩提寺、龍福寺の境内跡で、この入り口に仁王像が安置されています。この仁王像は、江戸時代の高岡の豪商、横山勘兵衛の寄進といわれ、寺の守護神として配されましたが、廃仏毀釈によって首、手を折られました。しかし、幸いなことに篤志家により修復され、現在に至っています。
128.去川関所御定番二見家墓石群
(市指定 史跡)
所在地:高岡町内山前田
指定:昭和54年1月24日
第16代島津藩主義久は、国境の防備を固めるため関所を去川(左流川)に設け、御定番に二見岩見守久信を命じました。以来、二見家は、11代に至るまで御定番を勤めましたが、廃藩置県(1870年)のため関所も御定番も廃せられてしまいました。ここには、御定番二見家の墓石群が残っています。
129.八代藩主島津久豊の墓
(市指定 史跡)
所在地:高岡町小山田山子3574番地2
指定:昭和54年1月24日
第8代島津藩主久豊は、応永10年(1403)に穆佐城に入り、伊東氏の加江田城を攻め、池尻城、白糸城、細江城を築きました。応永32年(1425)、久豊は51歳で逝去しました。
現在、穆佐の悟性寺区域内に『義天存忠大禅定門』の8文字を含んだ墓石とその奥に『えい(特殊漢字)骨塔』の3文字を刻んだ石碑が、久豊の墓跡として残っています。この墓は、安政4年(1857)、島津氏によって創建されたものといわれています。
130.天ヶ城址
(市指定 史跡)
所在地:高岡町内山2375番地2ほか
指定:昭和54年1月24日
慶長5年(1600年)第17代島津義弘は、関ヶ原の合戦の後、国境警備の必要性を痛感し、伊東氏に備えるため、久津良名(現高岡町中央部)の一部を城地に取り立て、城を「天ヶ城」と命名し、島津氏と関係の深かった地域から武士多数を強制移住させました。そして、比志島紀伊守国貞を所代地頭に任命し、「高岡」を前線の要としました。これが、「高岡郷」の創設とされています。その後、元和元年(1615年)に一国一城令が布かれると、天ヶ城は廃城となり、城にいた武士たちは、全員城を引き払い、麓(現高岡市街地)に下り住みました。
131.高木兼寛生誕地
(市指定 史跡)
所在地:高岡町小山田太良山2465番地1・2465番地2
指定:昭和63年4月18日
高木兼寛は当時難病といわれた脚気の予防法をはじめ日本の医学界に多大な貢献をしました。また、日本初の看護婦学校の創設、宮崎神宮の大造営など数々の偉業を成し遂げた人物でもあります。穆園広場は、東京慈恵会医学大学の創設者で「ビタミンの父」と呼ばれる高木兼寛(1849~1920)の生誕地に、昭和61年9月記念公園として完成したものです。
132.稲津掃部助の墓
(市指定 史跡)
所在地:清武町加納甲1003番地
指定:昭和45年7月23日
稲津掃部助重政は、19歳で伊東祐兵の小姓となり、その力量を高く評価され、25歳で清武城主となった人物です。
慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは、高橋氏の宮崎城を陥落させるなど、西軍に属した大名の諸城に向かって次々に兵を差し向けました。ところが、この時すでに高橋氏は東軍方に寝返っていたため、祐兵の跡を継いだ祐慶は、味方の城を陥落させた責任を全て掃部助に負わせ、清武城に派兵して掃部助を自害させました。
現在、掃部助夫妻の墓は、加納小学校の南西約200mの丘の上にあります。高さ2mを超えるこの大きな墓石は、かつては東向き(海側)でしたが、江戸時代に飫肥藩の船が日向灘で沈むのは掃部助の怨念ではないかということで、現在の西向き(山側)に変えられたとの言い伝えが残されています。
133.清武城趾
(市指定 史跡)
所在地:清武町加納甲776番地2・777番地2
指定:昭和45年7月23日
清武城趾は、清武川左岸の丘陵地上に立地する山城で、城域は南北380m、東西に320mに及び、「本丸」と呼ばれる主郭の西~南側に数mの段差によって区分される曲輪群を形成しています。また、丘陵上には、登能山・中山寺跡・観音寺跡など、外郭となる城館、寺院群があり、戦時にはそれらが密接に機能し合って城郭を形成していたと考えられています。
古くは、伊東氏の庶流、門川伊東氏と深い関係があった城で、一説には、天授5年(1379)頃、伊東祐能の子清武祐行が城を築いたと言われています。また、文明17年(1485)には、伊東祐国・祐邑の飫肥城攻めの後詰として入城した伊東祐堯が、この城で死去しています。
天正5年(1577)の伊東氏の豊後落ち以降、約10年間は島津氏の支配となりましたが、天正15年(1587)に伊東祐兵が飫肥に封ぜられてからは、再び伊東氏の支配となりました。
慶長5年(1600)の関ケ原戦中には、伊東氏家臣である稲津掃部助が当城にあり、宮崎城など周辺諸城を攻略する拠点としました。
134.伊東家僑墓
(市指定 史跡)
所在地:清武町加納丙1474番地
指定:昭和53年9月8日
中野神社の東側に、初代伊東祐兵から12代祐丕に至る歴代飫肥藩主の僑墓があります。僑墓とは仮の墓のことで、江戸時代、清武郷の武士たちが盆・彼岸・正月の藩主の墓参りに行くのに、飫肥では遠いので、この僑墓を建て参拝し、忠誠を誓ったと言われています。
135.伊東祐堯公墓
(市指定 史跡)
所在地:清武町船引(個人)
指定:昭和53年9月8日
15世紀半ば、父伊東祐立の死去(1444年)の跡を受けて家督を継いだ祐堯は、宮崎平野を中心に領国を拡大し、長禄元年(1457)には、財部土持氏を下してその領域を勢力下に入れるなど、伊東氏による日向国支配の基礎を築きました。
文明17年(1485)、飫肥の新納氏を攻めるために出陣した祐堯は、途中、清武中野にて死去し、この地に葬られました。(法名は源徳本公惣昌院殿)
清武城趾の西北に、伊東祐堯(1409~84年)をはじめ、伊東氏歴代当主の供養等があります。これらの供養等は、昭和12年(1937)に登尾山の不動迫渓谷に埋まっていたものを発掘し、良く13年に現在地に移したものです。正面右から伊東伊祐、祐堯、祐業と祐国、祐国、祐吉の順で、手前左右に重臣宮田藤五郎の墓があります。このうち、中央の祐堯と祐国の供養等は、大永4年(1524)に建てられたもので、清武衆によって先祖供養のために建てられたと考えられます。
136.歴代安井家墓地
(市指定 史跡)
所在地:清武町加納丙1474番地
指定:昭和53年9月8日
安井家墓地には、兵学指南として飫肥から清武に派遣され、中野に在住した安井朝宣から息軒の曾孫の子恭一に至る9代の墓があります。安井家は、家伝によれば出羽国(山形県)安倍氏に端を発し、その後上野国(群馬県)に移り、南北朝期に足利尊氏の命を受けて九州に下向した畠山氏に従って日向国に移り住んだと伝えられえています。
墓地には、朝宣とその妻、その子朝中とその妻、その子朝長とその妻、楚也(息軒の母)、朝淳(息軒の兄)とその娘、圭三郎(息軒の孫養子)、恭一(息軒の曾孫の子)などの墓が立ち並んでいます。
137.河崎権助の墓
(市指定 史跡)
所在地:清武町加納甲1941番地47
指定:昭和53年9月8日
加納ハイランド公園にある墓地の一角に、清武地頭河崎駿河守の子権助助為の墓があります。
墓碑に刻まれる文禄2年(1593)6月14日が、朝鮮の役中、権助が釜山浦で30歳の生涯を終えた日にあたることから、その墓碑ではないかと推定されています。一説には、伊東氏の世継ぎのことを心配した祐兵の重臣たちが、義益の子供で才学の誉れ高い義賢・祐勝兄弟の殺害を権助に依頼したため、権助も共に毒を食して死亡したとも伝えられています。
138.蓮徳寺墓碑群
(市指定 史跡)
所在地:清武町加納丙1393番地
指定:昭和53年9月8日
蓮徳寺は、日蓮宗富士門流の寺院で、江戸時代は安房妙本寺(千葉県)の末寺でした。墓碑群には、応仁元年(1467)に建立された3基の五輪塔があり、開祖日蓮上人に続き、富士門流の基礎を築いた日目上人、その弟子日郷上人の名が刻まれ、富士門流寺院として地元民衆の信仰を集めていた様子がうかがえます。
また、墓碑群の中には、文政12年(1829)から天保3年(1832)まで4年間清武地頭を勤め、44歳の若さでこの地に没した伊東佐織助辟の墓があります。伊東氏の一族で、明教堂を創建するなど、地域の文教の隆盛に貢献した人物として知られています。
139.玄松院開山の碑
(市指定 史跡)
所在地:清武町加納甲3372番地2
指定:昭和61年3月31日
安井息軒旧宅(国指定史跡)の西約200mの位置に、玄松院開山和尚の墓碑があります。『日向地誌』によれば、中野岡の西北、古城の北畔に位置し、天保年間(1830~1843)までは虚空蔵堂が残っていたとあります。
現在残っているのは、正八角形で、高さ30cm、幅32cmの塔身のみで、正面に「前永平富院開山慈峯大和尚」、その左右に「慶長六年(1601)辛丑七月七日」と刻まれています。玄松院があったとされる山中から、大小23基の墓石とともに発掘され、昭和56年12月に現在地に移されました。
140.河崎駿河守墓
(市指定 史跡)
所在地:清武町加納丙1474番地
指定:昭和61年3月31日
河崎駿河守の墓は、中野神社の東側、かつての文永寺跡に残されています。
駿河守は、伊東義祐・祐兵・祐慶の3代に仕え、無類の忠節を尽くした人物と言われています。晩年は清武地頭に任ぜられ、元和元年(1615)にこの地で亡くなりました(法名は大翁宗徳居士)。
この墓の東隣に、駿河守の子で、文禄2年(1592)の朝鮮の役に参加し、釜山浦にて30歳で死亡した権助祐為を供養した六地蔵幢があります。その忠節を称え、清武郷諸士が施主となって、権助の死から2年後の文禄4年(1594)に建てられました。
141.山内石塔群
(市指定 史跡)
所在地:清武町木原6327番地1・6325番地1
指定:昭和63年3月31日
山内石塔群は、元は宮崎リハビリ更正センター南側に所在していましたが、昭和57年(1982)の学園都市開発の際の発掘調査の後、現在の黒坂観音堂北側に移されました。
五輪塔約450基、板碑約80基が確認され、数基単位で五輪塔を建立した場所や「コ」の字形で五輪塔や板碑を並べた場所など、特徴的な配置も幾つか見られました。紀年銘がある石塔で最も古いものは応永25年(1418)ですが、さらに古い特徴を持つ五輪塔が存在することから、この石塔群の建立時期は、鎌倉時代末期から江戸時代初期の約300年間に及ぶものと考えられています。
石塔群のあった場所は、忠誠寺院の勢田寺があった場所と伝えられており、南隣りに安置されている弘安8年(1285)銘の五輪塔(県指定有形文化財)とともに、この寺ゆかりの石塔群とされています。